エデンⅢ/覚醒の兆し
セーラはいち早く、その変化に気づいた。
身体が、軽い。
痛みや恐怖が消えたわけではなかったが、
ただ、誰にも触れられていない気がした。
いつもなら、誰かの手が肩にあり、
視線が背中に集まり、
優しさが、逃げ道を塞いでいた。
それが、ない。
祈りの輪は、そこにある。
人々も、変わらず穏やかな顔をしている。
それなのに、
セーラは初めて「自分の重さ」を思い出していた。
足が、地面についている。
呼吸が、自分のものだ。
「……あっ」
小さく零れた声は、
誰にも拾われなかった。
祈りの輪が、僅かに乱れた。
言葉が、揃わない。
呼吸が、合わない。
誰かが、周囲を見回す。
「……今、何か」
「気のせいよ」
「大丈夫、ここは安全だから」
そう言いながら、
声の調子が、揃っていなかった。
安心は、共有されるものだ。
だからこそ、
ほんのわずかなズレが、不安を呼ぶ。
祈りは続く。
だが、以前のような「無音」にはならない。
誰もが、気づき始めていた。
ライナスは、セーラの前に立った。
距離は近い。
だが、触れない。
彼は、彼女を見下ろさなかった。
しゃがんで同じ高さで、静かに観察する。
「確認する」
それだけ言った。
「君は、ここにいることで、楽か?」
問いは、優しい。
誘導も、圧もない。
だからこそ、
逃げ場がなかった。
セーラは、口を開き、何かを言いかけ、
そして閉じた。
正しい答えは、用意されていない。
胸の奥にあるのは、
あの、形のない感情だけ。
——嫌だ。
言えない。
でも、消えない。
セーラは、
ほんの少しだけ、首を振った。
否定と呼ぶには、あまりに小さな動き。
それで、十分であった。
◆
オルドの端末が、警告音を出した。
初めて聞く音。
「……来た」
ジュリアンが、ごくりと生唾を呑む。
数値が、揺れている。
最適化が、解除されていく。
【状態:エデン】
【評価:未確定】
「拒否……だと?」
オルドは、画面を睨んだ。
「いや違う。選択だ……」
箱庭は、答えを要求しない。
だが、
答えが否定された瞬間、
世界は処理を失う。
「……中心が、動いた」
それは、崩壊の兆候ではない。
自由の、発生であった。
【観測ログ/記録者:オルド】
【対象領域:エデン】
【時刻:基準時未同期】
異常は、数値ではなかった。
「……音?」
風速は一定。
粒子密度、変化なし。
空間安定率、基準値。
それでも、ログの隙間に、
鳴ってはいけない間が生じている。
【注記:因果遅延 0.03】
誤差と呼ぶには、あまりに意味を持ちすぎていた。
オルドは、思考を記録せずにいられなかった。
「拒否から、発生している」
箱庭は、選択を許容しない。
正確には、選択が不要なように設計されている。
だが今、
中心座標が、揺れている。
【中心固定:解除準備状態】
誰も命令していない。
誰も更新していない。
答えが、動いた。
「まずいな……」
最適化は、停止していない。
だが、前提条件が崩れ始めている。
正解が、正解であり続ける理由を、
世界が失いつつある。
オルドは、喉の奥が乾くのを感じた。
【状態遷移予測】
【エデン:維持不可】
崩壊や破壊に至る兆し。
「判断の再開……」
ログの背景で、
初めて祈りではない音が観測された。
誰かの、息遣い。
誰かの、立ち上がる音。
そして。
【警告:未定義変数 増加】
エデンは、
楽園であることを、
やめ始めていた。
◆
魔剣士レイエスは、その空気を吸い込んで、
立ち上がり笑った。
「……わかった」
剣の柄に、手をかける。
だが、まだ抜かない。
視線の先には、
祈りの輪から、半歩だけ外れた少女。
「やっとだな」
低く、噛みしめるように言う。
「剣を抜いても、いい顔になった」
エデンの風が、
初めて、方向を持って吹いた。
剣に手をやる魔王を見上げるセーラ。
(……い…や)
小さな声であった。
祈りや願いではない。
初めて、誰のためでもない拒否。
彼女自身の意思で。
その時、
彼女の背後に大量の光気が吹き上がり、
小さな四枚の羽根が、ふわりと揺れた。
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