万魔殿・非公開観測記録
万魔殿・非公開観測記録
──記録者:ライナス
(内部識別名:レイエス)
万魔殿の中枢階層から、さらに三層下。
公式地図には存在しない空間で、男は一人、机に向かっていた。
壁は黒曜石。
天井は低く、魔力照明も最低限。
ここでは、万魔殿特有の喧騒も、悪魔たちの笑い声も届かない。
この部屋を知っている者は、ほとんどいない。
正確には、
知っていても、忘れさせられている。
ライナスは指先でペンを転がし、少しだけ笑った。
記憶端末を使わないのは、観測環・上位魔神・ルシフェルの索引に引っかかるからだ。
手書きは魔力をほぼ伴わない、記録されない記録になる。
「……さて」
声は低く、人のものであった。
魔王の威圧も、剣士の殺気も、すべて削ぎ落とした声。
机の上に浮かぶのは、観測環の簡易投影。
公式仕様ではない。
人類側の旧式観測端末を、冥界向けに再構成したものだ。
皮肉なことに、これが一番正確なのだ。
【非公開ログ/異常報告】
対象:中心候補(仮)
識別名:未定
外見年齢:幼体
随伴者:人類個体(高戦闘力)/天使系個体(不安定)
状況:移動開始
ライナスは、ペンを走らせながら、
軽く肩をすくめる。
「ルシフェルは気づいていないな」
断定ではない。
事実の確認だ。
堕天使の王の観測は、完璧に近い。
だがそれは、神を測るための完璧さだ。
神になる前の欠片。
奪われる途中の中心。
ましてや、泣きも叫びもしない幼体など……
「そりゃ、見落とすか」
口元に、意地の悪い笑みが浮かぶ。
追記:
中心候補は、自身を中心だと認識していない。
これは異常ではない。
むしろ、
自覚がない状態で中心として機能している点が異常。
ペンが止まる。
ライナスは、しばらく天井を見上げた。
レヴィアタンとしての直感が、色濃く鳴っている。
海の底で、圧が変わる前触れのような感覚。
「……これは」
小さく、訝しげに息を吐く。
「奪われる前に、形を変え始めてるな」
観測環が、静かに警告色を帯びた。
ルシフェルの狩りが、始まっている。
まだ接触はない。
だが世界の配置が、明確に彼女を中心に動き始めている。
ライナスは、そのログを共有しない。
万魔殿の他の魔神たち。
血に酔う者も、支配を欲する者も、破壊を好む者も。
誰にも見せない。
「だめだよ、これは」
囁くように言って、ペンを置く。
「これは……
神の狩りだ」
補足記録(非公開)
随伴人類個体(識別:カイ)は、
“守る”という選択を避けた。
代わりに、
“連れていく”を選んだ。
この判断は、
論理的には不適合。
生存率も低下する。
だが。
ライナスは、ほんの一瞬だけ、視線を伏せた。
かつて、
自分が剣を取った理由を思い出しかけて、
すぐに、忘れる。
ペンが、再び動く。
随伴者1:
分類:人類個体
識別名:カイ
状態:自律行動・武装保持
役割:移動判断/物理防衛
適合度:低(情緒干渉あり)
随伴者2:
分類:天使系個体
識別名:イリス
状態:神性残存・地上固定
役割:結界/抑制
適合度:不安定(中心共鳴未発生)
備考:
当該天使系個体は、
旧神界規格に近い反応を示すが、
現在の観測定義には適合しない。
(※分類保留)
観測継続。
介入、現時点では不要。
ただし、
この中心は、
奪われることに耐える。
最後の一文を書き終え、
ライナスは紙を閉じた。
部屋の外で万魔殿がひときわ大きく脈打つ。
ルシフェルが、動いた。
ライナスは、笑った。
性悪で、
冷静で、
そして少しだけ
楽しそうに。
「耐えた先に、何が残るか」
それを見たいと思った自分を、
ライナスは否定しなかった。
魔王レヴィアタン、魔剣士レイエスは、
まだ、剣を抜かない。
◆
ルシフェルは、歩きながら世界を見る。
人を見ない。
村を見ない。
感情も、祈りも、数えない。
彼が見るのは、道だ。
この先に進める道。
進めなくなる道。
小さなアクションすらしない。
ただ、世界に一つだけ正解を残す。
ある街道で、橋が崩れた。
偶然ではない。
通れなくなっただけだ。
森の獣たちが、南へ移動する。
追い立てたわけではない。
北を、消したからだ。
人々は思う。
自分が「選んだ」のだと。
だが違う。
ルシフェルは、静かに理解している。
選択肢が一つになったとき、
それは選択ではなく、回収だ。
中心は、必ずそこを通る。
逃げ場を消す。
助けを消す。
間に合う可能性を消す。
急がない。
焦らない。
彼にとっての狩りとは、
獲物が「自分で来た」と思い込むまで、
世界を整える作業だ。
ルシフェルは、微笑まない。
ただ、次の道を消した。
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