奪われる神
夜明け前。
村を包んでいた焚き火の匂いが、少しずつ薄れていく。
誰も「出発」とは言わなかった。
それでも、動きは始まっていた。
イリスは壊れた家々を回り、怪我人に声をかけ、残った水と食料を分けている。
その手つきは正確で、迷いがない。
だからこそ、目を合わせない。
カイは、それを見ていた。
責めない。
止めもしない。
カイの視線は、村の外れに向いた。
セーラは、石を握ったまま、黙って立っていた。
昨日より、ほんの少しだけ村から遠い場所に。
「寒くないか」
声をかけると、セーラは首を横に振る。
でも、その動きは遅かった。
「……ここ、いくの?」
地面を指さすのではなく、
村でも、森でもない、
その先を指すような仕草。
カイは一瞬だけ、空を見た。
ずれた層は、まだ完全には戻っていない。
世界は、セーラの位置を覚えている。
「行く」
短く、そう答えた。
イリスが、はっと顔を上げる。
「カイ、それは——」
「分かってる」
振り向かずに答える。
「守るでも、隠すでもない」
カイはセーラの前にしゃがみ、目線を合わせた。
「連れていく」
セーラは、すぐには理解できなかった。
でも、その言葉が「一人にしない」種類のものだということだけは、分かった。
「……おいてかない?」
「いかないよ」
「……また、こわれる?」
カイは、少しだけ間を置いた。
「壊れるかもしれない。
でも、ここよりはきっとマシだ」
正直な答えであった。
セーラは、石をぎゅっと握りしめる。
それから、カイの槌を見る。
「それ……おもい?」
「うん。重い」
それを聞いて、なぜか安心したように、セーラは小さく笑った。
「じゃあ、いっしょ。わたしも、石もってく」
村を出る準備は、ほとんどなかった。
荷物と呼べるものは、
水と、布と、食料、
それに最低限の道具だけ。
「……本当に、連れていくの?」
イリスは、
最後まで迷っていた。
「置いていく理由がないさ」
カイは振り返らない。
守る、とも言わない。
助ける、とも言わない。
セーラは、
一度だけ村を振り返る。
壊れた家。
焚き火の跡。
もう、揃わなくなった場所。
それから、
カイの背中を見る。
大きい。
でも、安心はしない。
ただ、
ここには戻れないと分かった。
セーラは、カイの手を取り、
行列に混ざって歩き出した。
◆
同じ頃。
ルシフェルは、翼を持たない姿で、
地上に立っていた。
空は割れず、
大地も震えない。
それでも、
彼の足元だけが、わずかに整っている。
草の向き。
影の長さ。
風の流れ。
すべてが「そうあるべき形」に戻っている。
人間の姿に近い。
それは擬態ではなく、
この世界に合わせて神性を削った結果であった。
人の形をした影が、世界を踏む。
「狩り、か」
楽しげでも、残酷でもない。
ただ、作業を確認する声。
彼の視界には、すでに“痕跡”が並んでいた。
壊れかけの井戸。
積まれ、崩れた石。
そして、移動を始めた中心。
「まずは、連れていかせてやろう」
ルシフェルの唇が、わずかに歪む。
観測環が、静かに回る。
中心候補:移動中
保護者:不適合
干渉条件:成立
ルシフェルは、歩みを速めた。
狩りは、追いつくことではない。
逃げ場を消し、選ばせることだ。
奪われる神。
中心を持ってしまった存在。
まだ、自分を知らない欠片。
少女はまだ神ではない。
だがもう、ただの子供でもない。
奪われるには、十分であった。
◆
さらに遠く。
崩れた高速道路の影で、
二つの影が並んでいた。
「動いたな」
冷静にオルドが言う。
「ああ」
ジュリアンが少し笑う。
「守る気はなさそうだ」
「……連れていく気だな」
その判断が、
正しいかどうかは分からない。
だが一つだけ、
確かなことがあった。
もう、
後戻りはできない。
「ライナスの動きは?」
「捕捉している。今は万魔殿だ」
「そうか…」
彼らは、
まだ介入する段階ではないと、
そう判断していた。
空の奥で、
観測環が静かに回る。
狩りと、
選択が、
同時に始まっていた。
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