わたし、いなくなったほうが、いい?
魔神が退いたあと、
村は、すぐに元の生活には戻らなかった。
壊れた家はそのままで、
倒れた柵も、割れた井戸石も、
まだ「終わった」ことを知らない。
火だけが燃えている。
半ば潰れた家屋の中で、
調理の途中だった鍋が、弱く泡を立てていた。
やがて、
遅れて、泣き声が上がる。
怒号ではない。
恐慌でもない。
ただ、堪えきれなくなった音だ。
イリスは、その場に膝をついたままであった。
スティルバーは握っている。
結界も、呪文も、間違ってはいなかった。
それでも、村を守れなかった。
自分が立っていた場所が、
正しかったのかどうかさえ、
もう分からない。
瓦礫の向こうで、足音が止まる。
「やっと会えたんだ、そんな顔するなよ」
槌を肩に担いだカイが、
意気消沈したイリスの背中に声をかける。
そして、ゆっくりと視線を下ろした。
(この子は)
村を見て、
イリスを見て、
最後に、井戸のそばを見る。
そこに、小さな子供がいた。
セーラは、座り込んでいた。
崩れた石の前で、
手を膝に置き、
ただ、動かなかった。
泣いていない。
震えてもいない。
何かを失ったというより、
何かを置いてきてしまったという不安げな顔。
カイは、何も言わずに歩み寄る。
イリスが、声を出そうとして、
喉でいったん止めた。
「……私が、もっと——」
短く、切るように呟く。
「違う」
カイは、誰も責めていなかった。
慰めてもいなかった。
セーラが、顔を上げる。
初めて、
自分より大きな存在を見た目であった。
「……わたし」
声が、かすれる。
言葉を選んでいるわけではない。
選ぶ余地が、もうなかった。
「……わたし、
いなくなったほうが、いい?」
井戸のそばの冷えた空気が揺れた。
誰かが息を呑み、
誰かが視線を逸らす。
カイは、すぐには答えなかった。
肯定もしない。
否定もしない。
代わりに、静かに言う。
「それを決めるのは、
君じゃない」
セーラは、瞬きをした。
意味は、分からない。
でも。
拒絶されていないことだけは、分かった。
◆
その遠く。
半壊した玉座の前で、
ルシフェルは立ち上がっていた。
観測環が、低く正確に鳴る。
「なるほど……」
怒りや焦りはなかった。
ただ、
興味が、確信に変わった。
「あれは奪う神じゃないな」
視線が、世界を貫く。
「奪われる神だ」
堕天使の王は、
地上の歪みに向けて
一歩を踏み出した。
◆
村では、夜が来ていた。
焚き火が灯され、
生き残った者たちが、黙って集まっている。
イリスは、まだセーラを直視できずにいた。
カイは、空を見上げない。
代わりに、
足元に落ちていた小さな石を見る。
セーラが、それを拾った。
積まない。
置かない。
ただ、握る。
もう、無意識ではやらない。
セーラは、焚き火のそばにしゃがみこむ。
誰も彼女に、
両親のことを聞かなかった。
聞けば、答えが壊れると分かっていたからだ。
大人たちが、壊れた家の話や、怪我人の数を数えている間、
彼女は、地面に落ちている小さな石を、指で転がしている。
丸い。
少し欠けている。
さっきまで、井戸のそばにあったものだ。
「……これ、あったかいね」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
焚き火の熱が移っただけなのに、
まるで石が生きているみたいだと思った。
セーラは、その石を、そっと布の端で拭く。
汚れているのが、なんだか可哀想だったから。
近くで、大人が泣いている。
肩を震わせて、声を殺している。
セーラは、少し考えてから、立ち上がった。
「……だいじょうぶ?」
背中に手を伸ばして、
でも、触れる前に止める。
触ったら、壊れる気がした。
だから代わりに、石を差し出した。
「これ、あったかいよ」
意味はない。
慰めになるとも思っていない。
ただ、
自分が今、持っている“いいもの”を、分けたかった。
大人は、驚いた顔でセーラを見て、
それから、泣きながら笑った。
「……ありがとう」
その言葉が、なぜか胸に引っかかる。
ありがとう、って言われるようなこと、したっけ?
分からないまま、セーラは首を傾げる。
また、石を見る。
置かなかった。
積まなかった。
今日は、それでいい気がした。
セーラは、石をぎゅっと握って、
焚き火のそばに、もう一度しゃがみこんだ。
遠くで、
観測環が回り始める。
世界は、
次の段階に入った。
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