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名前のない記憶

 同じ頃。


 都市の外縁、立ち入り制限区域。

 崩れた高架の縁に、一人の少女が腰掛けていた。


 少女の名はパトラ。


 国境、廃墟、地下。

 彼女は一人、世界を歩いている。


 誰にも知られず、誰にも告げず。


 高架の下を、貨物列車の残骸が風に鳴らしている。

 警告灯はすでに役目を終え、赤い光だけが惰性で点滅していた。


「……面白くなってきたじゃない」


 夜気に溶けるような小さな笑み。

 眼下には、静かに広がる都市の灯。


 それらは人の営みでありながら、

 どこか作られた光景のようにも見える。


 箱庭は、確実に外へと滲み始めていた。


「観測者が、いち、にぃ、三人。介入者が二人……」


 指を折りながら数え、首を傾げる。


「うん。賑やか」


 誰かが仕組んだわけではない。

 だが、偶然にしては配置が良すぎる。


 それでも、彼女の胸には満たされない感覚が残っていた。


 視線の先。

 見えない境界の、さらに向こう側。


「神様気取りが、まだ動いてない」


 その名を、彼女は口にしない。

 呼べば、こちらを向いてしまうから。


 パトラは軽く伸びをすると、高架から跳び降りた。


「じゃあ、私は下から行こうかな」


 重力を無視するような着地。

 次の瞬間、少女の姿は闇に溶けた。




 孤児院の午後は、穏やかであった。


 風に揺れる洗濯物。

 子どもたちの笑い声。


 どこにでもある光景のはずなのに、

 カイは玄関先で足を止めていた。


 理由は分からない。

 ただ、この場所に踏み込んでしまえば、

 何かが戻らなくなる気がした。


 扉の前に立つ女性。

 驚くほど普通の佇まい。


「こんにちは」


 ただそれだけの言葉が、胸の奥を揺らした。


「……どうかしました?」


 マリアが、不思議そうに首を傾げる。


 整った顔立ち。

 派手さはないが、柔らかな母性を感じさせる雰囲気。

 年齢は、カイより少し上だろう。


 だが、それ以上に、

 声の高さや、立ち方、瞬きの間に、

 説明できない懐かしさが混じっていた。


 視線を逸らそうとして、なぜか一瞬、遅れた。


「いえ……」

 言いかけて、言葉が詰まる。

「ただ……」


 理由が分からない。

 カイの胸の奥が、静かにざわついている。


「マリアさん。変な意味じゃないんですけど……」


 自分でも、なぜこんなことを聞くのか分からなかった。


「以前、どこかで会ったこと、ありませんか?」


「いいえ」


 マリアは少し考えるように目を伏せ、

 それから穏やかに微笑んだ。


「たぶん、ないですよ」


 否定のはずなのに、拒まれた気がしない。

 その答えが、なぜかとても優しく響いた。


「……そうですよね」


 カイは視線を庭へ移す。


 木陰に、一人の男が立っていた。

 壮年の、穏やかな顔立ち。


 子どもたちの輪には入らず、

 だが決して離れすぎることもなく、

 ただ、そこに在るように立っている。


「あの方は、アレフさん」

 マリアが説明する。

「昔から、ここを手伝ってくれているの」


 その名を聞いた瞬間。


 世界が、わずかに揺れた。


「……アレフ」


 声に出しただけで、喉の奥が熱くなる。


 胸の奥に、形のない痛みが走る。

 それは記憶ではない。

 だが、記憶の入口のような感覚であった。


 カイは、衝動に突き動かされるように歩み出た。


「アレフさん。俺はカイと言います」

 自分でも驚くほど、真剣な声だった。


「突然、すみません」


 アレフは一瞬だけ目を見開き、

 それから、困ったように微笑んだ。


 まるで、

 想定より早く再会してしまったかのような顔。


 その瞬間。


 カイの頬を、涙が伝った。


「……あ」


 悲しいわけでも、苦しいわけでもない。


 ただ、

 言葉になる前の感情が、溢れ出ただけであった。


「何でだろ……」


 アレフは何も問わず、静かに首を振った。


「謝る必要は、ありませんよ」


 低く、穏やかな声。


「辛い日々を、生きてきたのですね」


 その言葉が、過去の積み重ねを指していることを、

 カイはまだ知らない。


「……ありがとう」


 カイは涙を拭い、ぎこちなく笑った。


「そんな大層なものじゃないです」


「それでも」


 アレフは、少しだけ視線を逸らし、

 それから、確かめるように言った。


「また、話せる時が来ただけで……十分です」


 その言葉が、胸の奥に深く沈む。


 マリアは、何も聞かなかった。

 少し離れた場所から、ただ二人を見守っている。


 その横顔は、

 どこかすでに知っている結末を

 静かに受け入れているようにも見えた。


 風が吹き、木の葉が揺れた。


 世界は、何事もなかったように続いていく。


 けれど。


 カイの中で、

 確かに何かが、名前を持つ前の形で、

 目を覚まし始めていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚に置いてもらえたら励みになります。

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