層を見る者
冷静さを取り戻したルシフェルは、
神域の縁に佇んでいた。
いや、「取り戻した」
という言葉は正確ではない。
激情が鎮まったのではなく、意味を失ったのだ。
神域の縁は境界であり、上でも下でもない。
かつて世界を管理していた視座が、もはや役目を終えた場所。
彼は、現実世界を見ていなかった。
都市の崩壊も、人の行進も、祈りの増幅も。
それらはすべて、表層で起きている。
彼が見ていたのは層であった。
深度の違う層が、重なり合い、ずれ込み、互いに干渉し始めている。
かつて神だったもの。
神であることをやめたもの。
神になるはずだったもの。
整理されないまま積み重なり、触れてはならなかった部分にまで滲み出している。
神が“いる”のではない。
──なるほど。
理解は、唐突に訪れた。
ルシフェルは、静かに納得した。
神々が世界を見誤ってきた理由が、ようやく腑に落ちた。
神は、常に「一番上」から世界を見ていた。
秩序と管理の視点から。
意味が生まれる前の、設計図の段階から。
だが今、世界は違う。
意味は後から生まれ、重なり、濁っている。
上からではなく、下から積み上がっている。
その層のひとつに、
彼は“それ”を見つけた。
『セーラ』
名前を持つが、個体ではない。
存在を示すが、座標を持たない。
それは神ではなかった。
だが、神であった頃よりも、
はるかに多くの人間に触れていた。
世界に近かった。
意志は、断片的。
誰かの選択に混じる程度の弱さでしか現れない。
記憶は、拡散している。
一人の脳ではなく、複数の経験の中に沈殿している。
声は、直接響かない。
人の口を借り、祈りの形をとり、
時に願いと区別がつかないまま流れ出る。
行動は、できない。
彼女自身が世界に干渉することはない。
ただ、行動が揃う理由として、そこにある。
観測可能な現象。
信仰災害の核。
ルシフェルが危惧した想定は、
世界が、この『セーラ』という存在を必要としてしまうことであった。
偶像ではない。
像を結ばず、命令もしない。
だが、偶像より危険だ。
祈りが揃う。
行動が収束する。
中心が空席のまま、秩序だけが生まれる。
誰も座っていない玉座を、
世界そのものが囲み始めている。
それは、管理不能な安定であった。
誰の声でもない声が、
彼の思考の隙間を通り抜けた。
ルシフェルは、目を閉じる。
理解してしまった以上、
知らなかった頃には戻れない。
警戒すべきものは、はっきりしていた。
箱庭開発者。
現実のメシア、イリスの行進。
世界を変える槌を持った男、カイ。
そして、個体ではない神の気配。
いずれも、
世界が意味を求めた結果として生まれたものだ。
『セーラ』は、層として残り続ける。
叩けば、意味が増える。
否定すれば、名が定着する。
放置すれば、人が集まる。
どの選択も、正解ではない。
神域の縁で、
ルシフェルは初めて、決断を保留した。
世界が、静かに歩き出している。
その中心が空いたままであることを、
彼だけが、正確に理解していた……。
◆
【HKO内部観測ログ】
分類仮称:中心不在型信仰収束現象
暫定コード:Σ14-B
【観測概要】
複数都市圏において、明確な指導者・象徴・神格を欠いたまま、
行動および祈念パターンの収束が確認された。
当該現象において、
・神性反応:未検出
・悪魔性反応:未検出
・高位概念干渉:不明瞭
にもかかわらず、
集団行動の同調率が統計上の自然値を逸脱している。
【特記事項】
中心と推定される対象は存在しない。
しかし、祈念対象は「空席」を前提として共有されている。
当該状態は、
従来の偶像型信仰モデルおよび災害型神格発生モデルのいずれにも該当しない。
【評価】
本現象は、
「信仰の発生」ではなく
「信仰を必要とする環境の完成」と定義される。
対応方針:
・特定個体への介入は不可能
・否定行動は逆効果となる可能性が高い
・現時点では観測継続を推奨
【追記】
本日未明、
聖地周辺において
誰も存在しない地点を指して祈る事例が初めて揃って確認された。
お読みいただき、ありがとうございました。
続きが気になった方は、
そっと本棚に置いてもらえたら励みになります。




