兆し(メシアの少女)
救われた都市の外縁、崩れた高速道路の影で、
少女は瓦礫に腰を下ろしていた。
空はまだ壊れている。
裂けた雲の奥で、光と影が逆流するように動いていた。
少女は、それを見上げている。
片腕に深い傷を負っている。
肩口は包帯もなく、ただ布で巻かれているだけだ。
血は、もう止まっていた。
誰も、見ていないと思っていた。
だが、違った。
人が、集まってくる。
最初は一人。
次に二人。
やがて、戻るという数え方が消える。
誰も声をかけない。
近づきすぎない。
ただ、一定の距離を保ったまま、少女を見る。
「この子だ」
誰かが、小さく言った。
「最初に、空を見てた子だ」
「助かった街で、泣かなかった」
少女は何も言わない。
視線も動かさない。
誰かが、勇気を出したように問いかける。
「あんた……神を、見たんだろ?」
少女は否定しなかった。
否定できなかった。
その沈黙が、
答えとして扱われた。
その時、
裂けた夜の向こう側から、
“それ”は滲み出るように現れた。
角とも翼ともつかない影。
神話の残骸が、誤作動のまま具現化したもの。
ルシフェルの余波で溢れ出た、意味を失った悪魔。
人々が、息を呑む。
悲鳴は、上がらない。
逃げるという選択肢が、
この場から消えていた。
少女だけが、立ち上がる。
動きは遅い。
ふらついているようにすら見える。
誰かが叫びかけた。
「だ、だめだ! 近づくな!」
届かなかった。
悪魔が、吼える。
空間が、裂ける。
その刹那。
スティルバーの剣撃。
音は、観測されなかった。
少女の片腕が、
ただ、前に伸びている。
瞬殺。
悪魔は斬られると同時に消えた。
“存在が、斬撃により切り取られた”
そうとしか表現できない消失。
焦げ跡も、残骸もない。
最初から、そこにいなかったかのように。
沈黙。
誰も、声を出せない。
少女は、腕を下ろす。
小さく、肩で息をした。
疲れている。
それだけが、はっきりと分かった。
少女は、人々の方を見ない。
前を見る。
歩き出す。
どこへ向かうのかは、分からない。
本人にも、分かっていない。
ただ、止まるのが怖かった。
後ろで、足音が増える。
「……メシアだ」
「神は、まだいる」
「この子が、導いてくれる」
少女は、何も言わない。
夜の中を、
壊れた世界の上を、
片腕に傷を負った少女が歩く。
その背中に、
意味が、勝手に積み重なっていく。
やがて、誰かが名をつけるだろう。
祈りを捧げるだろう。
聖地を作るだろう。
だが、この時点では、
少女はまだ──
ただの、生き残りであった。
「連れて行ってくれ」
「次は、どこだ」
少女は、ゆっくりと立ち上がった。
歩き出した理由は、
寒かったからかもしれない。
瓦礫が痛かったからかもしれない。
だが人々は、
それを“導き”と呼んだ。
少女が歩けば、
人がついてくる。
振り返らない。
待たない。
振り払わない。
それだけで、
列は、できてしまった。
夜の街に、
声はなかった。
ただ、
足音だけが、
増えていった。
歩くのが、遅い。
腕が、重い。
みんなが、
後ろにいる音がする。
ただ、槌を肩に担いだ少年はいない。
「カイ……」
振り返ると、
終わってしまう気がして、
前を見る。
どこに行くかは、
決めていない。
ただ、
止まるのが、
怖かった。
【HKO内部文書抜粋】
件名:救済都市外縁部における異常集団形成事象
分類仮称:聖地化兆候(プロトコルΣ7)
■ 概要:
当該都市外縁において、単一の未確認少女個体を起点とした。
自発的追従行動が確認された。
特徴的なのは、
・指示、演説、奇跡の誇示が存在しないこと
・移動のみで集団が維持・拡大していること
・恐怖よりも「置いて行かれる不安」が行動原理となっている点である。
当該個体は、
神話系悪魔個体を武装・詠唱・該当エネルギー反応なしで消失させた事例が一件確認されている。
本事象は、
「救済の記憶」と「神の不在」が同時に残存する環境下で発生した
信仰代替現象と推測される。
■ 危険度評価:
Σ7(聖地化進行時、介入は逆効果となる可能性が高い)
勧告:
・当該少女個体への直接接触を行わない
・排除、保護、神格否定のいずれも実施しない
・集団が歩く限りは、観測に留めること
■ 補足:
本件は、
「メシアが現れた」のではない。
メシアが必要とされる状況が完成したと判断される。
◆
冥界・外縁監視層
赤黒い霧の向こうで、魔神たちは沈黙していた。
映像は歪み、音は拾えない。
だが、現象だけは十分に伝わってくる。
「……消えたな」
低く唸るような声。
「武装反応なし」
「詠唱なし」
「神性も、悪魔性も検出できない」
報告が、次々と重なる。
消えたのは、下級でも雑魚でもない。
神話層に引っかかった“意味だけが残った悪魔”だ。
「喰われたのか?」
「いや……違う」
別の魔神が、ゆっくりと首を振る。
「斬られた。
だが、普通の斬撃じゃない」
言葉を選ぶ。
「……存在を切り離された」
その場に、不穏な静けさが落ちる。
スルトが、腕を組んだまま言った。
「神か?」
即座に、否定が返る。
「神ではない」
「神域反応がない」
「権限の匂いもない」
「だが──」
別の声が、続ける。
「神に触れた痕跡はある」
空気が、わずかに張り詰めた。
ルシフェルの癇癪。
世界破壊。
救済演出。
聖地。
すべてが、一本の線で繋がり始めている。
「厄介だな」
スルトは、笑わなかった。
「神じゃない」
「だが、人間でもない」
視線が、少女の歩く映像に集中する。
負傷した片腕をかばい
ふらつく足取り。
後ろに、増え続ける人間。
「……あれは、旗だ」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「掲げている自覚もない旗だ」
「なら、叩くか?」
問いに、即答はなかった。
「叩けば、意味が増える」
「放置すれば、集まる」
結論は、ひどく単純であった。
「様子を見る」
「神が管理を始めたなら、危険だ」
スルトは、最後にこう言った。
「神が見失った隙間に、生まれたものなら
これは、もっと厄介だ」
冥界は、動かない。
だが、見ている。
◆
足が、痛い。
瓦礫が冷たい。
靴の底が、もう薄い。
歩くたび、肩が引っ張られる。
傷を負った腕が、まだ重い。
少女は、前を見て歩いている。
どこに行くかは、分からない。
考えないようにしている。
考えると、止まってしまうから。
後ろに、人がいる音がする。
たくさん。
多すぎる。
振り返らない。
振り返ったら、
何かを言わなきゃいけなくなる気がする。
言葉は、出ない。
あの時も、そうだった。
空を見ていた。
何かが、落ちてくると思った。
怖かった。
でも、目を逸らせなかった。
神を見たかと聞かれた。
分からない。
光はあった。
声も、あった気がする。
でも、それが“神”なのかは、
誰も教えてくれなかった。
歩く。
寒い。
背中に、視線を感じる。
期待とか、祈りとか、重たいもの。
置いていかれないで、という音。
少女は、少しだけ歩幅を落とした。
それだけで、
後ろの足音が、揃った。
怖くなる。
自分が、
何かになってしまいそうで。
「……」
声は出なかった。
出し方を、忘れていた。
遠くで、何かが動いた気配がする。
また、ああいう“影”が出るかもしれない。
でも、さっきのことは、
よく覚えていない。
腕を伸ばした。
邪魔だったから。
斬った感触もない。
消えた、という感じもしない。
ただ、
いなくなった。
それよりも、
今は寒い。
瓦礫の向こうに、
少しだけ、風の弱い場所が見える。
そこまで行こう。
それだけでいい。
少女は、歩く。
後ろで、人がついてくる。
理由は分からない。
聞かない。
聞けない。
歩くのが、遅い。
夜の中で、
片腕を庇いながら少女が歩く。
意味は、後からついてくる。
彼女は、まだ知らない。
自分が、
“兆し”と呼ばれ始めていることを。
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