介入者
オルドことソロは、モニター越しに『箱庭』を見下ろしていた。
都市座標HK-015。
異形の集合体は、既に終わるはずの存在だ。
複数の観測ウィンドウが重なり合い、現実と仮想の境界が曖昧になっている。
その中央で、カイ達の住む街を侵食していた異形の集合体が、まだ蠢いていた。
「……遅いな」
独り言のように呟いた瞬間、通信が割り込む。
『ソロ、見えてるか』
ジュリアンの声であった。
彼もまた、別の場所から箱庭を観測していたはずだ。
「見えている。最悪のタイミングでな」
観測値は正常。
因果修正も完了している。
それなのに。
『ライナスが転移している』
一瞬、空気が張り詰めた。
「……確定か?」
『ああ。挙動が内部の人間じゃない。
しかも、完全に干渉している』
ソロは舌打ちした。
別の場所で、ジュリアンもまた、同一の異常ログを見ていた。
「よりにもよって、あいつが……」
『目的が分からない。どこから入ったのかも分からない。
だが、このまま放置すれば──』
「危険だな、世界は無茶苦茶に掻き回されるぞ」
『箱庭は、壊れる』
沈黙。
箱庭への転移は、単なるログインではない。
“存在を世界に縫い付ける”行為だ。
しばしの後、ジュリアンが低く言う。
『どうする?
我々も転移して、ライナスを監視するか。
住人、NPCを守るために』
ソロは迷った。
箱庭への直接転移。
それは本来、開発者である彼ら自身が、一番避けてきた行為だ。(旧周期のオルドは別)
「……そのリスクを一番懸念していたのは、ライナス自身だったはずだ」
転移を最小限に抑えていた彼が、今は戻ることなく箱庭内でずっと過ごしている。
(何があった? 何を考えている? ライナス……)
『だが、現実だ』
ソロは目を閉じ、短く息を吐いた。
「……俺が行く」
『ソロ!?』
「お前は待機しろ。
サポートとログ保持を頼む」
そう言って、ソロは接続を切った。
⸻
転移は、一瞬であった。
次の瞬間、彼は箱庭の空に立っていた。
名も無き熾天使。
六枚の白銀の翼と、光を編んだ弓。
その姿は、かつて彼が好んだ理想そのものであった。
地上では、異形の集合体が街を飲み込もうとしている。
「……派手にやる必要はない」
ソロは弓を引いた。
狙いは、中心部。
淡く脈動する“コア”。
放たれた矢は、音もなく空を裂き、
一発でコアを貫いた。
爆発はない。
悲鳴もない。
集合体は、結合を失いボトボトと地面に落ち、そして存在しなかったかのように崩壊した。
因果が、切断されたのである。
その時。
ソロは、視線を感じた。
街の高層ビル。
屋上の影に、細身の黒衣の人物。
「……やはり、いたか」
互いに、言葉は交わさない。
だが、分かる。
あれは、ライナスだ。
普通の人間のアバター。実物と姿は違う。
だが、視線の温度が同じであった。
ほんの一瞬。
黒衣の男が、口元だけで笑った気がした。
「…………」
ソロは弓を下ろし、翼を畳む。
「深入りは、しない」
それだけ言って、ソロは即座にログアウトし、
そのまま、空から消えた。
◆
カイ達の戦闘は終わった。
だが、無傷ではなかった。
イリスは、歩幅がわずかに乱れている。
身体ではなく、精神の方だ。
「大丈夫?」
カイが声をかける。
「うん………たぶん」
たぶん、という言葉が残った。
──少し離れた街の病院。
白い廊下に、消毒液の匂いが漂っている。
「大した外傷はありませんが……
精神的な疲労がかなり強いですね」
白衣を羽織った熟練そうな医師が、静かに告げた。
「今日は、しばらく休ませましょう」
隣でカルテを整理している看護士、名札でアグラトという名の助手だとわかる。
カイはベッドに腰掛け、イリスは椅子に座っていた。
二人とも、言葉少なであった。
病院の窓の外。
小さな建物が見える。
「……孤児院?」
イリスが呟く。
「ええ。隣接しているんです」
アグラトが答えた。
「マリア先生が、面倒を見ていてね」
医師が言ったその名前を聞いた瞬間。
カイの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
理由は分からない。
だが、懐かしい。
「……行ってみても、いいですか」
カイは自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
「ええ。
今は、休息も治療のうちですから」
医師は一瞬だけ、カイを見つめて答えた。
⸻
孤児院の庭。
子どもたちの笑い声。
教室。
絵本。
優しい声。
その片隅で、木陰に立つ一人の壮年の男。
穏やかな笑顔。
カイは、その背中を見た瞬間。
胸の奥がちくりと痛み、何かが確かに反応した。
まだ名前はない。
だが、それは記憶の芽だった。
玄関から出てきた女性が、こちらに気づいて微笑む。
「こんにちは」
マリアであった。
カイは、理由もなく、息を呑んだ。
◆
夜。
病院の屋上で、ライナスは空を見上げていた。
「まだ、思い出さなくていい」
誰にともなく呟く。
「その方が……長く生きられる」
黒球は見えない。
気配は消えていない。
介入者たちは、名を告げない。
だが、確かに動き始めていた。
遠く。
世界の外側で。
誰かが、静かに観測している。
Σ7でも、ライナスでもない。
ただ、興味を持った存在。
HADES。
箱庭は、確実に次の段階へ進み始めていた。
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