癇癪
世界が、まだ壊れ続けている。
空は裂け、大地は波打ち、雷という概念が暴れていた。
神の癇癪は止まらない。
その瓦礫の中心で、
ジュリアンは、動けずにいた。
身体が重いのではない。
重さという概念が、彼から剥がれ落ちている。
「……時間切れ、か」
声は、ほとんど音にならなかった。
視界の端で、結界が展開される。
必死に、しかし精密に、現実を縫い止めている。
オルドの干渉であった。
「もういい! これ以上いたら、本当に消える!」
返事をする気力はなかった。
だが、ジュリアンは笑った。
ほんのわずか、口角を上げただけだ。
「……十分だ」
何が、とは言わない。
空間が折り畳まれる。
強引な撤退。
美しさも理屈もない、ただの回収。
ジュリアンの視界が暗転する、その直前、
彼は、確かに見た。
ルシフェルが、追ってこない。
理由は、わからない。
だが、それでよかった。
地上。
天変地異は、続いている。
どこかおかしい。
雷は落ちるが、焦点を失っている。
大地は裂けるが、意図がない。
「……さっきより、雑だ」
カイの声には恐れがあった。
以前の裁定は、正確だった。
破壊ですら、意味を持っていた。
今は違う。
雷は落ちるが、狙いを失っている。
大地は裂けるが、どこを壊すべきか迷っている。
力はある。
確信がない。
空域の中心。
ルシフェルは、静止していた。
怒りは、まだある。
魔力も、神性も、枯れていない。
それなのに。
「……」
世界が、以前ほど従わない。
裁定を下したはずの場所で、
結果が、ほんの一瞬、遅れる。
あり得ない。
神にとって、
それは致命的な違和感であった。
ルシフェルは、自分の胸元を見る。
傷はない。
変化もない。
「……触れられた」
それだけを、低く呟いた。
Σ7・観測中枢。
警告が、重なり合って表示されている。
【再計測開始】
【対象:LUCIFER】
【神性出力:正常】
【存在確度:低下】
Σ7は、演算を続行する。
【注記】
神性は失われていない。
しかし、
「神である」という前提に揺らぎを検出。
ログが、更新される。
【分類修正】
神 → 神性保持・不完全存在
一行の差分。
それは、
世界にとって致命的な変更である。
【影響】
・裁定精度:低下
・世界干渉:遅延発生
・観測抵抗:発生中
Σ7は、初めて確信する。
開発者ジュリアンの行為は、
無意味ではなかった。
【結論】
外部干渉により、
LUCIFERの「自己確信」が破壊された可能性。
Σ7は、処理を継続する。
恐怖ではない。
希望でもない。
ただ、事実として。
地下の退避層。
ジュリアンは、意識を失いかけながら、天井を見ていた。
もう、身体は動かない。
寿命は、確実に削られている。
「……なあ」
誰に向けたわけでもない声。
「神も……殴れば、揺れる」
それだけを残し、
彼は、目を閉じた。
「馬鹿野郎、やりすぎだ」
オルドが言う。世界は、凄惨に壊れている。
だが。
壊れ方が、変わった。
それは、
確かに残った。
人間が神に触れた、その残響であった。
◆
人類はこれまで経験した事のない、
未曾有の天変地異に襲われていた。
タナトスパニックの比ではない。
世界は、もう元の形をしていなかった。
夜と昼の区別は消え、
空は常に燃えているか、凍っているか、そのどちらかであった。
大気が揺れるたび、
遠くで都市が沈む。
崩れるのではない。
そのまま消える。
ビル群が立っていたはずの場所に、
次の瞬間には巨大なクレーターが残り、
その縁が、ゆっくりと溶け落ちていく。
海が、持ち上がっていた。
津波ではない。
海面そのものが、山のように隆起し、
大陸へ向かって滑り落ちてくる。
沿岸都市は、抵抗する暇もなかった。
警報が鳴る前に、
通信が途絶え、
そのまま、地図から消えた。
大地は、震えていない。
すでに、割れている。
地殻はプレートという単位をやめ、
巨大な破片として浮き沈みしていた。
山脈が横倒しになり、
内陸の都市に覆い被さる。
地震というより、
惑星が、体勢を崩している。
空からも、何かが降ってくる。
雨ではない。
雪でもない。
燃える粒子。
凍結した時間の破片。
腐食する霧。
触れたものは、
燃え、
凍り、
朽ちる。
順番はない。
同時だ。
都市は、
避難所という概念ごと、
失われていった。
衛星軌道。
複数の観測衛星が、
一斉にブラックアウトする。
最後に送られてきた映像には、
雲海の向こう側で、
大陸が一つ、沈み込む瞬間が映っていた。
津波では説明できない。
爆発でもない。
ただ、
そこにあった地形が、
存在を消した。
生き残った都市も、無事ではない。
重力が、一定でない。
人は歩けない。
建物は、立っていられない。
上に落ちる者。
横に潰れる者。
物理法則が、局地的に壊れている。
世界は、
もう一つの世界として、
再計算され始めていた。
ある場所では、
一瞬で気温が数百度に跳ね上がり、
別の場所では、
時間が引き延ばされ、
逃げる途中の人間が、
永遠に倒れ続けている。
悲鳴は、途中で止まる。
音が、
意味を失うからだ。
まだ完全には滅びてはいない。
だからこそ、
地獄であった。
世界人口の、約半分。
正確な数は、もう誰にも分からない。
都市、国家、文明単位で、
丸ごと欠落している。
残った側は、
それを、
見ていることしかできない。
誰かが、呟いた。
「……神の怒りだ」
否定できる者は、
どこにもいなかった。
これは、戦争ではない。
侵略でも、裁定でもない。
感情だ。
触れられた神が、
怒りで世界を振り回しているだけ。
それでも。
瓦礫の下で、
まだ、誰かが生きている。
壊れた空の下で、
誰かが、祈っている。
もう、
誰に向けた祈りなのかも、
分からないまま。
世界は、まだ回っている。
しかし。
元に戻るという選択肢だけが、消失した。
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