神を殴る者
神域が、殴られた。
それは比喩ではない。
流れる空間が、歪み、裂け、怒号を放つ。
「……?」
ルシフェルが、初めて明確に視線を向けた。
玉座も、威圧もない。
それでも神域は彼の存在だけで成立している。
その中心に、
再び、ジュリアンが立っていた。
今度は、違う。
身体の輪郭が、微細にブレている。
人間の形を保っているが、
存在の更新周期が、明らかに異常であった。
「……まだ、生きていたか」
ルシフェルの声は、冷たい。
その瞬間。
ジュリアンの足元で、箱庭演算が炸裂した。
箱庭内部・緊急上書きログ
【警告】
【肉体改変:上限突破申請】
【承認者:ジュリアン(旧開発者権限)】
ジュリアンの身体が、弾けるように変質する。
筋肉は隆起しない。
骨も太くならない。
代わりに、
・密度
・反応
・演算速度
すべてが、人間の枠を逸脱していく。
皮膚の下を、光が奔る。
それはエネルギーではない。
計算結果そのものであった。
ジュリアンが、踏み込む。
空間が、潰れた。
一歩で、神域を数百メートル詰める。
「な……」
ルシフェルの言葉より早く、拳が迫る。
神圧が、拳を弾こうとする。
だが。
弾けない。
ジュリアンの拳が、神に当たった。
音はない。
衝撃だけが、神域を貫いた。
ルシフェルの身体が、後方へ滑る。
ほんの数メートル。
だが、神が、押された。
観測ログ
【Σ7】
【神性安定度:低下】
Σ7は、演算を止めた。
あり得ない。
「…………やるじゃないか開発者」
ルシフェルは、初めて笑った。
神の反撃。
最初の一撃は、魔法であった。
天から落ちる雷。
同時に噴き上がる瘴気の濁流。
街一つ分の空間が、蒸発する。
そして、その中を、ジュリアンは進んでいた。
雷は直撃している。
瘴気も、身体を貫いている。
それでも、倒れない。
肉体が強いのではない。
「倒れる」という結果が、まだ選ばれていないだけだ。
一歩。
踏み出すたび、地面が沈む。
ルシフェルは神域を反転させる。
空間が圧縮され、
人間一人分の空間が無に変換される。
即死の裁定。
だが、そこに──
拳が、ねじ込まれた。
圧縮された空間が、内側から歪む。
あり得ない方向に、現実が悲鳴を上げる。
殴った。
魔法ではない。
神力でもない。
ただの、拳。
ルシフェルの身体が、半歩、揺れた。
初めて。
衝撃が、遅れて世界に伝わる。
音が爆ぜ、光が潰れ、
周囲の空域がガラスのように砕け散る。
上下が消え、距離が歪み、
ジュリアンの身体が内側から圧縮される。
「まだだ!」
ジュリアンは、自分の存在定義を削った。
痛みが、消える。
代わりに、視界が冴え渡る。
世界が、数式に見えた。
ジュリアンの背後で観測アンカーが展開される。
神域の一部が、固定された。
「……まだやる気か」
「当然だ」
「ルシフェル」
ジュリアンは告げる。
「今のお前は、完全じゃない」
(あと数分……それ以上は存在が保てないか)
ジュリアンは、笑った。
「十分だ」
そして。
走った。
神域を、踏み砕きながら。
拳、肘、膝。
技ではない。
世界への干渉。
一撃ごとに、
ルシフェルの神性が、僅かずつ削れる。
「……人間風情が!」
ルシフェルの怒声と共に、
神域が崩壊しかける。
ジュリアンは、止まらない。
「勝てなくていい!」
拳を、振るう。
「殺せなくていい!」
さらに、踏み込む。
「お前を、神でいさせなければ!」
最後の一撃。
触れた瞬間。
ルシフェルの世界理解が、一瞬だけズレた。
静寂。
ジュリアンの身体が、崩れ落ちる。
時間が、尽きかけている。
ルシフェルは、動かなかった。
「……なるほど」
初めて。
彼は、自分の胸元に触れた。
何もない。
傷もない。
「確信が、欠けたか」
観測ログ・最終
【Σ7】
【神性:不完全】
世界は、震えた。
地上で。
瓦礫の中で。
ジュリアンは、薄く笑った。
「……上出来だ」
まだ、終わっていない。
だが、
もう、始まってしまった。
これは攻撃ではない。
干渉だ。
続くルシフェルの反撃は、天災であった。
火。
氷。
雷。
腐食。
圧壊。
同時発動。
三重呪殺。
神が本気で「排除」する時の、手順。
だが、ジュリアンは避けない。
受け、踏み込み、
距離を詰める。
一歩ごとに、皮膚が裂け、血が浮く。
時間が、削れていく。
それでも止まらない。
──肘。
ルシフェルの脇腹に、短く叩き込まれる。
神域が、歪んだ。
「開発者。貴様は……何者だ」
ルシフェルの声が、初めて低くなる。
怒りではない。
困惑だ。
魔法が、効いていないわけではない。
確かに当たっている。
結果が、ズレている。
殴られるたび、
自分が「神である」という確信が、脆くも揺れる。
それは、致命的であった。
ジュリアンは立っているだけで奇跡なほど、
ボロボロの身体をかろうじて維持していた。
その寿命は、秒単位で削れている。
それでも、
最後の一歩を、踏み込む。
拳で握る。
狙いは、胸。
心臓ではない。
魂でもない。
「神であると信じている場所」
そこへ──
拳が、届いた。
衝撃は、なかった。
代わりに。
ルシフェルの視界が、一瞬だけ暗転する。
世界が、静止する。
「……う」
言葉にならない声。
その一瞬、
彼は神ではなかった。
ただの存在であった。
次の瞬間、爆発。
ジュリアンの身体が、後方へ吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられ、
動かなくなる。
勝敗は、決していない。
ルシフェルは、拳を見ていた。
自分の胸に残る、
“触れられた感覚”を。
それが消えない。
遠くで、Σ7の警告が連続発生する。
【警告】
【LUCIFER:存在確度 低下】
【神性安定率:揺らぎ】
あり得ない数値。
神が、
殴られた結果、揺らいでいる。
瓦礫の中で、ジュリアンが、息も絶え絶えに笑った。
「……ほらな」
声は、ほとんど音にならない。
「勝つ必要は……ない」
立ち上がれない。
それでも、視線は外さない。
「……触れられるって、知っただろ」
ルシフェルは、初めて後退した。
半歩。
たったそれだけ。
世界は、
それを、見逃さなかった。
この瞬間、
神はまだ負けていない。
しかし。
無敵ではなくなった。
ルシフェルは、
拳を受けた箇所を見下ろしていた。
そこに傷はない。
血も、裂け目も存在しない。
確かに、触れられた。
「……不快だ」
低く、押し殺した声。
感情ではないはずのものが、
胸の奥で、明確な形を持って蠢いている。
否定。
拒絶。
焦燥。
そして怒り。
空域が、歪んだ。
一度、世界が静止する。
空が、激しく明滅した。
雷が落ちるのではない。
雷という概念が、無数に生成され、同時に破裂する。
大地が沈む。
山が裏返り、海が持ち上がる。
重力が方向を失い、
空間が上下左右に引き裂かれていく。
「消滅せよ」
声と同時に、裁定が下される。
天変地異ではない。
世界そのものへの癇癪だ。
炎が降る。
氷が噴き上がる。
風が刃となり、時間が引き延ばされる。
アスタロトの理。
ベルゼブブの腐食。
すべてが、制御を放棄したまま、現実へ流れ込む。
遠くで、街が一つ消えた。
地平線の向こうで、
地殻が裂け、光が噴き出す。
Σ7の警告が、重なり合って鳴り響く。
【警告】
【世界安定率:急降下】
【LUCIFER:感情出力、上限突破】
【災害定義:更新不能】
「止まらない……!」
「なんて魔力だ」
瓦礫の中で、
ジュリアンは、動かない。
もう立てない。
視界も、揺れている。
それでも、彼は笑っていた。
「……だろ…」
掠れた声。
「やっぱり……効いてた……」
ルシフェルが、こちらを見た。
視線が合う。
そこにはもう、冷静な神はいない。
触れられたことを、
許せない存在がいる。
「ここまでだ」
言葉と同時に、
世界が“消去”を開始する。
ジュリアンの周囲、数十メートルが、
白く塗り潰されていく。
存在の削除。
完全な死。
その直前。
ルシフェルの胸に、
再び、違和感が走った。
ほんの一瞬。
「……なんだ」
世界が、わずかに遅れる。
観測が、噛み合わない。
それは、確信の揺らぎ。
神が、怒りのあまり、
自分自身を完全には信じ切れていない証拠。
その隙に、
白は、完全には閉じなかった。
ジュリアンは、消えない。
壊れかけたまま、
そこに残った。
ルシフェルは、舌打ちする。
天変地異は、さらに激しさを増す。
もはや、止める者はいない。
世界は、
神の癇癪に晒されている。
瓦礫の中で、
一人の人間が、確かに生きている。
神に触れたという事実だけを、残して。
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