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断章

 世界の裏側には、音がない。

 正確には、音が意味を持たない。


 観測されない場所。

 記録されない瞬間。

 断章とは、そういう領域だ。


 パトラはそこに立っていた。


 足元に広がるのは、白でも黒でもない空間。

 文字が崩れ、時間が剥がれ、因果だけが裸で転がっている。


「……ここに、あったはずよね」


 彼女の前に浮かぶのは、一つの記述。


【Object-6666】

【状態:人間起源/機能継続】

【役割:抑制・拘束・制限】


 ──ジュリアン。


 かつて人間だった存在。

 今は、世界がルシフェルを縛るために残した装置。


 パトラは理解していた。

 ルシフェルが現世で戦えない理由。

 力を振るえば、世界そのものが拒絶反応を起こす理由。


「敵が強いんじゃない……

 縛りが、まだ生きているのよ」


 彼女は断章に手を伸ばす。


 これは救済ではない。

 ましてや慈悲でもない。


「ごめんね、ジュリアンさん」


 静かな声で、そう言った。


「でも、

 あなたがそこにいる限り、

 あの方は、本気で立てない」


 断章が、光を帯びる。


 文字列がほどけ、

【Object】という定義が、ゆっくりと剥がれていく。


 世界は抵抗しなかった。

 なぜならこれは破壊ではない。


 元に戻すだけだからだ。


 オブジェクト化される前。

 役割を与えられる前。

 ただの人間だった頃へ。


「人間に戻してあげる」


 パトラの瞳に、迷いはない。


「それが、

 ルシフェル様が前に出てくるために

 必要な現実なら」


 最後に、断章は一文だけを残した。


【状態変更:完了】

【抑制:解除準備段階へ移行】


 パトラは背を向ける。


 その背後で、

 人間に戻された何かが、初めて息をした。


 それが、

 世界にとって何を意味するのかを、

 まだ、誰も知らない。


 Σ7観測ログ


【Σ7・異常観測記録】


【観測時刻:未確定】

【観測座標:非公開(断章干渉の可能性)】

【事象分類:未定義】


 警告。


 拘束対象【LUCIFER】に対する

 抑制パラメータが、瞬間的に減衰。


 数値変動:

 ・拘束率:78% → 61%

 ・干渉可能範囲:拡張

 ・受肉制限:不安定化


 原因ログ:存在せず。


 本来、抑制の解除には

 以下のいずれかが必要。


 ・管理者権限

 ・世界改変規模の破壊

 ・観測点の消失


 該当なし。


 再計測。


【Object-6666】

 状態:検出不能。


 削除ログ:なし。

 破壊痕跡:なし。

 存在履歴:断絶。


 Σ7は、初めて「処理を停止する」という選択を行った。


「……おかしい」


 世界は壊れていない。

 侵攻も起きていない。

 だが、縛りだけが弱まっている。


 これはエラーではない。

 仕様違反でもない。


「誰かが、正規の手順以外で

 因果に触れた」


 Σ7は理解する。


 これは敵ではない。

 反乱でもない。


 味方を名乗る何者かの介入だ。


 警戒レベルを更新。


【注意】

【LUCIFER:行動選択の自由度、上昇】


 Σ7は、初めて恐怖に近い演算結果を得た。



 ◆



 パトラは、自分が間違っているとは思っていなかった。


「だって……他に方法がないでしょ」


 誰に言うでもなく、そう呟く。


 ルシフェル様は、そこにいる。

 確かに存在している。

 だが、手が届かない。


 力を振るえば世界が拒絶する。

 降りれば、抑制が絡みつく。


「それって……

 戦えないってこと」


 パトラは、かつての光景を思い出す。


 顕現前。

 不完全なルシフェル。

 それでも、圧倒的だった存在。


 そして、自分は殺された。


 一度、確かに。


「……でも、それでいい」


 彼女は笑う。


「私は、

 選ばれなかった側だから」


 忠誠じゃない。

 信仰でもない。


 これは、執着だ。


「オノケリスは、愛で壊された」


 静かに吐き捨てる。


「私は違う。

 私は、現実を選んだだけ」


 ジュリアンを戻したことに、迷いはない。


 人間に戻した?

 ─違う。


「道具を、

 本来あるべき形に戻しただけ」


 それで世界が壊れるなら、壊れればいい。


 それで誰かが苦しむなら、

 それは必要な摩耗だ。


「ルシフェル様と、

 対等に立てるなら」


 たとえ、

 次に殺されるのが自分でも。


 パトラは、それを受け入れている。


「ええ……

 それでも私は、

 正しいことをしたわ」


 そう思わなければ、

 自分が壊れてしまうから。


 光は、音もなく収束した。


 それは爆発ではなく、逆であった。

 世界が一度、深く息を吸い込み、そして、吐いた。


 床に横たわっていたのは、オブジェクトでも、観測点でもない。

 血の通う身体だった。


 ジュリアンは、指を動かす。

 ぎこちなく、確かめるように。


 皮膚の感触。

 重力。

 呼吸に混じる、微かな痛み。


「……戻った、のか」


 声は掠れていたが、確かに人間のものであった。


 背後で、パトラは何も言わない。

 彼女は自分の行為を説明もしなければ、謝罪もしなかった。


 ジュリアンは立ち上がる。

 まだ身体は完全ではない。

 オブジェクトだった頃の歪みが、どこかに残っているのがわかる。


 それでも、彼は振り返らなかった。


「……礼は言わない」

 拒絶ではなく、決別であった。

 それだけを、背中越しに告げる。


「だが。これで、失敗を回収しに行ける」


 パトラの視線が、薄く揺れた。

 けれど、言葉は返らない。


 ジュリアンは歩き出す。

 一歩一歩、確かめるように。


 向かう先は決まっていた。


 オルドのいる場所だ。


 まだ、歩き方を思い出している途中であった。

 それでも、その足取りに迷いはない。


 彼はもう一度、世界を止めに行く。


 今度は、

 人間として。


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚ブクマに置いてもらえたら励みになります。

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