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裁定

 裂け目は、音を立てずに広がった。


 冥界から溢れ出したそれは、

 出てきたというより

 世界の裏側が、剥がれ落ちたようであった。


 モンスターが呻く。


 観測されるたびに、音が書き換えられる。


 近くの街灯が一斉に消え、

 遠くで誰かの悲鳴が、途中で途切れた。


 オノケリスは、その場に立ち尽くしていた。


「……これは」


 彼女の想定より、穴は小さい。

 だが、浅すぎた。

 生活層の縁、封印も緩い、最も危険な場所。


 黒い霧が渦を巻き、その中心からが這い出た“何か”。

 それは、定まった形を持っていなかった。


 骨と影が絡み合い、関節は逆に折れ、顔らしい部分には、幾重にも重なった「目」。


 皮膚の内側からは、無数の文字列のようなものが透けて見える。

 だが、その意味自体が、腐敗していた。


 存在理由を失った概念が、

 肉のふりをして動いている。


 それが、このモンスターの正体であった。


 足が地面に触れた瞬間、

 アスファルトが軋み、数秒遅れて崩れ始める。


 触れた場所から、

「現実の解像度」が落ちていく。


 近づくだけで、胸が締め付けられる。


「……来るな」


 カイは思わず、足を止めた。


 視界の端に、過去の選択が割り込む。

 救えなかったもの、見捨てたもの、選ばなかった未来。


「精神干渉……!」


 イリスが即座に結界を展開する。


「カイ、距離を取って!」


 それでも、カイは武器を構えた。


 戦うしかない、

 そう判断した瞬間。


 空間が、紙のように折れた。


 オノケリスは、その光景を見ていた。

 膝が、震えている。


「こんなはずでは」


 彼女が開けたのは、ほんの小さな穴であったが、

 箱庭の観測は連鎖する。


 選択は、世界を呼び寄せる。


 その事実が、

 今、目の前で形になっていた。



 ──その時。


 風が止まり、音が消える。


 そこに、ルシフェルが立っていた。


 羽も、威圧もない。

 ただ、当たり前のように。


 彼は、冥界の穴から這い出したそれを一瞥する。


 霧さえも止まる。

 モンスターの動きが、途中で固定される。


 世界が、一段深く静かになる。


 誰も名を呼ばなかった。


 ルシフェルは、モンスターを真っ直ぐに見た。


 視線が触れた瞬間、

 それは悲鳴すら上げられなくなる。


 存在が、

 輪郭から剥がれ落ちていく。


 肉が溶けるのではない。

 魂が砕けるのでもない。


「ここに在る理由」が、削除されていく。


 数秒もかからなかった。


 モンスターは、

 最初からそこにいなかったかのように、

 霧ごと消えた。


 あとには、

 何も残らない。


 破壊の痕跡すら、

 修正されるように薄れていく。


 ルシフェルは、何も言わなかった。


 オノケリスだけが、

 その背を見つめていた。


 声が、喉で詰まる。


「……ルシフェル、様……」


 彼は答えない。


 ただ一度、

 彼女の存在を認識した。


 それだけで、

 オノケリスは理解した。


 自分は、もう同じ場所には立てない。


 裁定は、すでに下されている。


「……終わったな」

 カイが、ぐったり息を吐く。


 

 ルシフェルは、

 静かにその場を去った。


 彼の背後で、

 裂け目は完全に閉じる。


 まるで、

 最初から存在しなかったかのように。


 だが。


 世界は、確かに一度、

 壊れかけた。


 そしてそれを覚えている者だけが、

 取り残されていた。



 オノケリスは、立ったまま動けない。


 冥界の裂け目はすでに閉じている。

 魔物の気配も、叫びもない。


 ただ、彼女だけが残されていた。


 ルシフェルは振り返らなかった。


 いや、正確には一度だけ、視線が交わった。


 裁く言葉も、拒む言葉もない。


 オノケリスの輪郭が、わずかに揺らぐ。


「……あ」


 声は出た。

 だが、音は世界に届かなかった。

 オノケリスは自分の手を見る。


 消えてはいない。

 透けてもいない。


 世界が、彼女を参照しなくなっている。


 自分は殺されていない。

 赦されてもいない。


 選択を歪めた存在として、

 選択肢の外へ落とされたのだ。


「ルシフェル様……」


 名を呼ぶ。


 だが、その名前は、

 もう彼女には繋がらなかった。


「……お会いしたかった」


 それは、祈りでも言葉でもなく、

 ただの感情の残滓であった。


 一歩、後退する。


 そのたびに、

 世界との接点がひとつずつ消えていく。


 最後に残ったのは、

 彼女自身の想いだけ。


 そこには何もいなかった。


 だが、誰も

「消えた」と断言できなかった。


 それは死ではなく、

 観測不能という裁定。


 その場に残った沈黙を、

 ルシフェルだけが、背負っていた。


 静寂だけが残った。


 ルシフェルは、割れた空域の縁に立ち、崩れかけた世界を見下ろしていた。

 救ったとも、壊したとも言えない結果。


「……愚かだ」


 誰に向けた言葉でもない。

 自分自身にすら、届かせる気はなかった。


 愛は、力ではない。

 だが、力よりも厄介だ。


 オノケリスの名が、思考の端をかすめる。

 忠誠。恋慕。狂気。

 どれも、拒む理由にはならなかった。


 彼女は正しかった。

 間違っていたのは、世界のほうだ。


 ルシフェルは翼を広げなかった。

 ここでは、飛ぶ必要がない。


 選択は終わった。


 胸の奥に残るこの感情だけは、

 どう処理すればいいのか、分からなかった。


 彼女はそれでも、世界を歪めた。


 私は裁定を下した。

 冥界の穴も、溢れた異形も、すでに存在しない。

 それなのに、完全ではない。


 この長時間の受肉。

 本来の権能が、わずかに届かない感覚。


 ……残っているな。

 あの人間──開発者ジュリアンの遺した抑制。

 6666の意思は、現世にありながら、因果を介してこの私を縛っている。

 場所も、世界も、関係ない。


 魔神どもに調査と討滅を命じるべきか。

 いや、

 私が動けば、疑念を抱く者も増える。


 パトラ。

 あの女を使え。


 人間の遺した楔は、

 人間の手で、片をつけさせる。



 独白は、空に溶けた。


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚ブクマに置いてもらえたら励みになります。

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