観測点オノケリス
冥界には、黒い霧が常に立ち込めている。
それはまるで、世界そのものが呼吸をやめたことを告げるかのように、無音のまま空を這っていた。
大地はところどころ、土のように崩れている。
崩れ落ちるたび、確かに何かが変わる。
だが、その音は霧に呑まれ、誰の耳にも届かない。
冥界の中心にあるはずの邸宅は、
崩壊の象徴として、そこに立っていた。
窓のガラスは割れているのに、破片は落ちない。
玄関の扉は閉まっているのに、開いたままの感覚だけが残っている。
ここにいる者は、時間が止まっている。
そんな錯覚だけが、この場所を満たしていた。
冥界の邸宅の片隅にオノケリスは静かに座っていた。
その背には、翼があった。
灰色に煤を混ぜたような羽根が、静かに畳まれている。
広げれば冥界の霧を押し分けられるはずなのに、
彼女は一度もそれを試そうとはしなかった。
羽根は整っている。
だが、よく見れば一本だけ、
最初から存在しなかったかのような空白がある。
オノケリス自身も、それに気づいているのかどうかはわからない。
淡い銀灰色の髪は肩口で揃えられ、
飾り気はない。
瞳は墨色で、
光を映すことを拒むように静かであった。
悪魔としては、あまりにも控えめな姿。
だが、顔立ちは整っている。
整いすぎていて、
「誰かの傍に立つためだけに用意された器」にも見えた。
服装は万魔殿共通の秘書装束。
黒を基調とした長衣に、
胸元には小さな金具──万魔殿の紋章。
彼女は、無意識のうちにその紋章に指を添えていた。
まるで、
それが自分の存在理由であるかのように。
代理議長として臨んだ万魔殿の会議は、
結論に至ることなく、中途半端に終わった。
スルトは現世侵出を皆殺しの方向へ押し切ろうとし、
他の悪魔たちは戸惑い、楽観し、恐怖し、声を荒げた。
その喧騒が、今も耳の奥に残っている。
そして、
オノケリスは、ルシフェルの書庫に残された遺物の中から、
ひとつの端末を見つけた。
電脳箱庭地図。
彼が現世へ侵出した際、
「もう必要ない」と置き去りにした、激レアアイテム。
オノケリスは、その端末を見つめた。
指先が、震える。
恐怖ではない。
恋慕と、狂気が混ざり合った震えであった。
「これを……使えば」
秘書としての仮面は、もうなかった。
彼女は、ただ一人の想う者になっていた。
「ルシフェル様……」
その名を口にするだけで、胸の奥が軋む。
彼は今、どこにいるのか。
もう、誰にも分からない。
神界に近い、誰も立ち入れない空域。
そこにルシフェルはいる。
そして、
自分は、そこへ行けない。
だからこそ、オノケリスは策略を選んだ。
端末を起動すると、断片化された世界地図が浮かび上がる。
無秩序に散らばる座標の中に、一本の薄い線が引かれていた。
「……ここ」
確信ではない。
だが、信じた。
同時に、理解する。
この地図は、
現世の人間の観測がなければ完成しない。
オノケリスは端末を握りしめた。
自分の力だけでは、届かない。
ならば、人間を使う。
「中位悪魔の私が現世に出るには……
人間の選択が必要」
それは、本城清隆が辿った道と同じであった。
分かっている。
許されないことだと。
それでも、胸が叫ぶ。
──会いたい。
彼女が選んだのは、
ただの女子大学生だった。
ひとり暮らし。
孤独。
未来への期待が、ほとんど残っていない。
穴があった。
オノケリスは、そこに囁いた。
「あなたの人生は、もう終わっている」
箱庭アプリの画面に、選択肢が浮かぶ。
【選択:YES】
【状態:確定】
【取消:不可】
選択は、行為ではない。
状態だ。
人間は、自分で選んだと信じ込む。
それが、最も扱いやすい。
その夜。
女子大学生は、スマートフォンを見つめていた。
「……なに、これ……」
違和感を覚えながらも、
指は、【YES】に触れていた。
その瞬間。
世界は、音もなく歪んだ。
召喚は、成功した。
現世の闇の中に、オノケリスは立っていた。
だが、
世界は、彼女を歓迎しない。
地面に触れた瞬間、身体が拒絶される。
ここに存在してはいけない、と告げられているかのように。
それでも、彼女は立ち上がった。
「……ルシフェル様……」
召喚元の女子大学生を一瞥し、
何も言わず、背を向ける。
女子大学生は、その場に立ち尽くしていた。
足元に落ちたスマートフォンを拾い上げる。
画面は暗い。
電源は入っている。
だが、何も、映らない。
名前も、写真も、連絡先も。
彼女が「持っていたはずの世界」は、
すべて、そこから消えていた。
彼女はまだ、それが何を意味するのか分からない。
◆
夜の街。
不自然な足音が近づく。
カイとイリスだった。
「……あなたは、誰」
オノケリスは微笑む。
「ルシフェル様の、秘書です」
その名に、カイの目が鋭くなる。
「ルシフェル……」
「あなたは、ここにいてはいけない」
イリスの声は冷たい。
「どうして……
ただ、会いたいだけよ……」
涙を浮かべ、笑う。
黒い霧が集まり始める。
「箱庭の観測が暴走している」
「このままじゃ、現世が壊れる」
「壊れてもいい……!」
恋は、理屈を殺す。
空が裂けた。
霧の向こうで、
何かが、ほんの一瞬だけこちらを見た。
視線だったのか、錯覚だったのか、
誰にも、断定できない。
それは、ルシフェルの空域へ続く穴であった。
「禁忌よ」
「それでも……!」
「……あなたは、もう関係者だよ」
箱庭の地図が、震えた。
世界は、彼女の恋のために淀み、歪み続ける。
そしてそのすべてを、
タナトス、アグラト、ライナス、オルドは
沈黙のまま観測していた。
◆
そこは、空とも虚無とも呼べない場所であった。
光はある。
だが、どこから来ているのか分からない。
時間は流れていない。
だが、止まっているとも言い切れない。
ルシフェルは、そこにいた。
世界が歪む感触は、すでに届いている。
箱庭の観測が、無秩序に揺れていることも。
──オノケリス。
その名が、脳裏をかすめる。
彼女が何をしたのか、
誰を使ったのか、
どこまで踏み込んだのか。
彼はすべて、理解していた。
ルシフェルは、立ち上がらない。
「……馬鹿だな」
それは、叱責でも怒りでもなかった。
ほんのわずかに、
人間に近い感情を含んだ声であった。
彼は、視線を伏せる。
自分が応えれば、
彼女の選択は正解になってしまう。
だから、何もしない。
何も言わない。
ただ、
「戻れなくなるぞ」
誰にも届かない声で、そう呟いた。
世界は、答えなかった。
箱庭の地図は、なおも震え続ける。
そして。
その沈黙こそが、
オノケリスにとっての最後の裁定となった。
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