デッドメモリー
夕暮れの街は、深紅と紫のグラデーションに染まり、
その美しさとは裏腹に、瓦礫の山が痛々しい光景を際立たせていた。
崩壊したビル群の隙間に、青黒い影が溜まっていく。
空気は重く、呼吸をするたび、胸の奥に微かな違和感が引っかかった。
カイとイリスは、倒れた高架の陰に身を寄せていた。
異形の集合体は、少し距離を置いた街路で蠢いている。
追ってこない。
だが、去りもしない。
「……様子がおかしい」
カイが低く呟く。
あの怪物は、獲物を追い詰める捕食者の動きをしていない。
ただ──観察している。
イリスは答えず、胸元を押さえていた。
鼓動が、速い。
さっきから、頭の奥で“何か”が軋んでいる。
思い出そうとしてはいけない記憶が、内側から叩いてくる感覚。
「……イリス?」
「……ごめん。ちょっと、気分が……」
言いかけて、言葉が途切れた。
視界が、一瞬だけ歪む。
──羽音。
──腐臭。
──空を覆う、巨大な影。
◆
燃える空。
焼け焦げた大地。
仲間の叫びが、爆風にかき消される。
目の前に浮いていたのは、蝿の羽音をブゥゥンと響かせる魔神ベルゼブブ。
夥しい数の蝿が集合した巨躯。
無数の複眼が、嘲笑うかのように夕焼けを反射している。
その中心にある“核”が、不気味な律動を刻んでいる。
「……ああ」
意志とは関係なく、悲痛な呻き声が、イリスの口から漏れ出した。
それは、過去の悪夢が蘇る予兆であった。
イリスの喉が、悲鳴を上げそうになるのを必死で押し殺した。
ひくりと、痙攣するように鳴ったのは、恐怖だけではない。
もっと深い、絶望的な感情が渦巻いていた。
逃げ場はなかった。
勝ち目も、なかった。
彼女は理解する。
この街は、
私を“もう一度爆死させる”つもりだ。
過去のトラウマを糧に、私を、そしてこの世界を、
再び地獄の炎で焼き尽くそうとしているのだ。
『下がって!』
自分の声が、確かに聞こえた。
魔力が、限界を越えて集束していく。
身体の内側が、壊れていく感覚。
それでも止めなかった。
──黒核自爆地獄
核爆発。
世界が、黒に塗り潰された。
ベルゼブブの絶叫。
砕け散る肉体の再生が、間に合わない。
そして、
イリス自身が、消えていく感覚。
◆
「……ッ!」
イリスは息を詰まらせ、現実に引き戻された。
膝が崩れ、瓦礫に手をつく。
冷たい感触が、確かに“今”を告げている。
「今の……何……?」
汗が、額を伝う。
心臓が、痛いほどに鳴っていた。
カイが慌てて駆け寄る。
「大丈夫か!?」
「う…うん、でも……」
イリスは、自分の手を見つめた。
微かに、震えている。
「……私、あれを……知ってる」
「え?」
「戦った。
すごく、怖くて……
でも、逃げなかった」
記憶の再生を本能が警告する。
失った力が戻る感覚はなかった。
ただ、同じ死に方をなぞらされているという確信だけがあった。
そして、カイの側でも、異変は起きていた。
頭痛。
視界の端に、見覚えのない氷の紋様。
誰かの声が、遠くで響く。
『焦るな。今は、まだだ』
「……誰だ……?」
呟いた瞬間、痛みは引いた。
だが、確かに“何か”が触れた感覚だけが残る。
その時。
上空の屋上で、ライナスが静かに息を吐いた。
「……やはり、引き金は記憶かい」
彼の視線の先には、二人と、街を覆う異形の影。
そして、そのさらに奥、
見えない黒球の干渉域。
『やめておけ。
今、全部思い出せば……壊れる』
誰に向けた言葉なのか、彼自身にも分からない。
ただ一つ確かなのは。
この街は、もう安全ではない。
異形の集合体が、再び動き出す。
今度は、明確な意志をもって。
イリスは立ち上がった。
足は震えている。
それでも、逃げなかった。
「……カイ」
「ああ…!」
二人の間に、説明はいらなかった。
まだ力の正体は分からない。
思い出してはいけない過去も、完全には掴めない。
それでも、
ただの一般人では、もういられない。
街の影が、牙を剥く。
そして、遠くで。
誰かが“それ”を見ていた。
Σ7でも、ライナスでもない。
──HADES。
観測ではない。
認識でもない。
ただ、興味を持っただけ。
それは悪意でも敵意でもなかった。
退屈しのぎのような視線であった。
それが、最悪だった。
◆
ライナスは、屋上で夜空を見上げた。
あの黒球は、もう見えない。
だが、見られていない保証は、どこにもない。
「……始まってしまったな」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、確かに誰かに届く声であった。
「お前たちも、もう見ているだろう」
名を呼ぶことはしない。
だが、彼の視線は確かに、
かつて共に世界を壊した者たちの座標をなぞっていた。
その瞬間、
イリスの胸の奥で、
まだ名前を持たない“何か”が、静かに脈打った。
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