神の去ったあとで
神は、何も与えずに去った。
裁きも、救いも残さずに。
そのあとに残ったのは、
壊れた歯車と、
助からない側に立った人間であった。
神が消えてから、どれくらい時間が経ったのか。
イリスには、正確には分からなかった。
都市中央広場のざわめきは、まだ完全には戻っていない。
人々は声を発しているのに、どこか現実感が薄い。
まるで、世界そのものが一拍遅れて動き出したようだった。
イリスは、少し前を歩くカイの背中を見ていた。
──変わった。
はっきりそう思った。
傷が増えたわけでも、力が強くなったわけでもない。
けれど、彼の歩き方には、もう「戻る」という選択肢が含まれていなかった。
「……ねえ、カイ」
呼びかけると、彼はすぐに振り返った。
「どうした?」
その声は、いつも通り落ち着いている。
だけど、イリスは気づいてしまった。
自分の身を案じる気配が、そこにはなかった。
「さっきから、人の位置を見てるでしょ」
「……そうかな」
「無意識。誰かが転びそうになる前に、先に動こうとしてる」
カイは少し考え、肩をすくめた。
「癖みたいなもんだ」
違う、とイリスは思った。
それは癖なんかじゃない。
自分を勘定に入れていない動き。
彼は、もう自分が助かる前提で世界を見ていなかった。
「ねえ」
イリスは足を止めた。
カイも、つられて立ち止まる。
「……後悔してる?」
カイは、すぐには答えなかった。
視線を少し下げ、砕けた舗道の欠片を見つめる。
「後悔は、してない」
「即答しないんだ」
「考える必要はある」
正直すぎる答えであった。
「壊した瞬間に分かってた。戻れないってことも、全部」
イリスは、胸の奥が少し痛くなるのを感じた。
「それでも?」
「ああ。それでもだよ」
カイは顔を上げる。
「誰かが、あの歯車を壊さなきゃいけなかった。
順番に救われる世界なら、いずれ切り捨てられる側が出る」
「……それを、自分にした」
淡々とした声。
誇りも、自己犠牲の酔いもない。
だからこそ、イリスには重かった。
「ねえ、カイ」
彼女は、少しだけ迷ってから続けた。
「私、あなたがいなくなる前提で進む気はないから」
カイの目が、わずかに揺れた。
「それは——」
「分かってる。助からない側に立ったんでしょ?」
彼女は一歩近づく。
「でもね。それと隣に立つかどうかは、別」
カイは何か言おうとして、やめた。
イリスは胸元に手を当てる。
「言ったでしょ。私にも、切り札がある」
「……それは使うな」
即座に返ってくる制止。
「ほら。そういうところ」
「イリス」
「あなたは、自分の代償は受け入れるのに、私の代償は認めない」
少しだけ、声が震えた。
「それ、ずるいよ」
沈黙。
遠くで、誰かが名前を呼ぶ声がする。
カイは、深く息を吐いた。
「……生きてほしいんだ」
「私もよ」
即答であった。
「だから、生きる。あなたの隣で」
しばらくして、カイは苦笑した。
「参ったな」
「でしょ」
二人は、同時に少しだけ笑った。
それから、イリスは空を見上げる。
もう、金色の光はない。
「ねえ、神ってさ」
「うん」
「結局、何を見に来たんだと思う?」
カイは少し考え、答えた。
「……俺たちが、期待するかどうか」
「期待?」
「救いとか、裁きとか。全部含めて」
イリスは、ゆっくりとうなずいた。
「じゃあさ」
彼女は、歩き出す。
「期待しない代わりに、どうする?」
カイは、彼女の隣に並ぶ。
「選ぶ」
「何を?」
「人間側のやり方を」
イリスは、少し驚いた顔をしてから、穏やかに笑った。
「それ、再起動ってやつ?」
「大げさだな」
「でも、嫌いじゃない」
二人は、崩れた街路を進む。
目的地は、まだ決まっていない。
それでも、足は止まらなかった。
神のいない空の下で。
壊れた歯車を背に。
人間の物語は、静かに歩き出していた。
◆
誰にも追えなかった金色の光は、空の高みでほどけるように消えた。
正確には、消えたのではない。
観測者の側から、切り離されたのだ。
ルシフェルは、地上よりも一段高い層へと戻っていた。
天界でも、神域でもない。
かつて「唯一神」が世界を管理していた、その残骸のような場所。
空間は広がっているのに、距離という概念が存在しない。
上下も前後もなく、ただ情報と因果だけが漂っている。
そこに、ルシフェルは立っていた。
翼は展開されていない。
だが、畳まれているわけでもない。
必要がないから、そうしているだけであった。
崩壊した歯車。
救済の系から自らを外れた人間。
それでもなお、剣を抜かずに立った二人。
いくつもの未来分岐が、静かに閉じられていく。
ルシフェルは、わずかに視線を落とした。
そこに地上は見えない。
だが、確かに残響だけが届いている。
「神は、期待されることで機能する」
そして、ほんの一瞬だけ。
感情と呼ぶには薄すぎる、
だが完全な無機でもない揺らぎが、その瞳を横切った。
「……否」
「期待を壊した後に残るものこそ、観測対象だ」
記録は、保存された。
人類はまだ救われていない。
だが、神に委ねる段階を越えた。
それは進化でも、堕落でもない。
ただの移行だ。
ルシフェルは、背を向ける。
次に地上へ干渉する条件は、まだ満たされていない。
金色の光は、完全に収束し、
世界の管理階層から、その存在は一時的に切り離された。
観測は続く。
だが、もう同じ視点ではない。
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