表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

57/125

神の去ったあとで

 神は、何も与えずに去った。

 裁きも、救いも残さずに。


 そのあとに残ったのは、

 壊れた歯車と、

 助からない側に立った人間であった。


 神が消えてから、どれくらい時間が経ったのか。

 イリスには、正確には分からなかった。


 都市中央広場のざわめきは、まだ完全には戻っていない。

 人々は声を発しているのに、どこか現実感が薄い。

 まるで、世界そのものが一拍遅れて動き出したようだった。


 イリスは、少し前を歩くカイの背中を見ていた。


 ──変わった。


 はっきりそう思った。

 傷が増えたわけでも、力が強くなったわけでもない。

 けれど、彼の歩き方には、もう「戻る」という選択肢が含まれていなかった。


「……ねえ、カイ」


 呼びかけると、彼はすぐに振り返った。


「どうした?」


 その声は、いつも通り落ち着いている。

 だけど、イリスは気づいてしまった。


 自分の身を案じる気配が、そこにはなかった。


「さっきから、人の位置を見てるでしょ」


「……そうかな」


「無意識。誰かが転びそうになる前に、先に動こうとしてる」


 カイは少し考え、肩をすくめた。


「癖みたいなもんだ」


 違う、とイリスは思った。

 それは癖なんかじゃない。


 自分を勘定に入れていない動き。


 彼は、もう自分が助かる前提で世界を見ていなかった。


「ねえ」


 イリスは足を止めた。

 カイも、つられて立ち止まる。


「……後悔してる?」


 カイは、すぐには答えなかった。

 視線を少し下げ、砕けた舗道の欠片を見つめる。


「後悔は、してない」


「即答しないんだ」


「考える必要はある」

 正直すぎる答えであった。


「壊した瞬間に分かってた。戻れないってことも、全部」


 イリスは、胸の奥が少し痛くなるのを感じた。


「それでも?」


「ああ。それでもだよ」

 カイは顔を上げる。


「誰かが、あの歯車を壊さなきゃいけなかった。

 順番に救われる世界なら、いずれ切り捨てられる側が出る」


「……それを、自分にした」


 淡々とした声。

 誇りも、自己犠牲の酔いもない。


 だからこそ、イリスには重かった。


「ねえ、カイ」

 彼女は、少しだけ迷ってから続けた。


「私、あなたがいなくなる前提で進む気はないから」


 カイの目が、わずかに揺れた。


「それは——」


「分かってる。助からない側に立ったんでしょ?」


 彼女は一歩近づく。


「でもね。それと隣に立つかどうかは、別」


 カイは何か言おうとして、やめた。


 イリスは胸元に手を当てる。


「言ったでしょ。私にも、切り札がある」


「……それは使うな」

 即座に返ってくる制止。


「ほら。そういうところ」


「イリス」


「あなたは、自分の代償は受け入れるのに、私の代償は認めない」


 少しだけ、声が震えた。


「それ、ずるいよ」


 沈黙。

 遠くで、誰かが名前を呼ぶ声がする。


 カイは、深く息を吐いた。


「……生きてほしいんだ」


「私もよ」

 即答であった。


「だから、生きる。あなたの隣で」


 しばらくして、カイは苦笑した。


「参ったな」


「でしょ」


 二人は、同時に少しだけ笑った。


 それから、イリスは空を見上げる。


 もう、金色の光はない。


「ねえ、神ってさ」


「うん」


「結局、何を見に来たんだと思う?」


 カイは少し考え、答えた。


「……俺たちが、期待するかどうか」


「期待?」


「救いとか、裁きとか。全部含めて」


 イリスは、ゆっくりとうなずいた。


「じゃあさ」


 彼女は、歩き出す。


「期待しない代わりに、どうする?」


 カイは、彼女の隣に並ぶ。


「選ぶ」


「何を?」


「人間側のやり方を」


 イリスは、少し驚いた顔をしてから、穏やかに笑った。


「それ、再起動ってやつ?」


「大げさだな」


「でも、嫌いじゃない」


 二人は、崩れた街路を進む。

 目的地は、まだ決まっていない。


 それでも、足は止まらなかった。


 神のいない空の下で。

 壊れた歯車を背に。


 人間の物語は、静かに歩き出していた。



 ◆



 誰にも追えなかった金色の光は、空の高みでほどけるように消えた。


 正確には、消えたのではない。


 観測者の側から、切り離されたのだ。


 ルシフェルは、地上よりも一段高い層へと戻っていた。

 天界でも、神域でもない。

 かつて「唯一神」が世界を管理していた、その残骸のような場所。


 空間は広がっているのに、距離という概念が存在しない。

 上下も前後もなく、ただ情報と因果だけが漂っている。


 そこに、ルシフェルは立っていた。


 翼は展開されていない。

 だが、畳まれているわけでもない。

 必要がないから、そうしているだけであった。


 崩壊した歯車。

 救済の系から自らを外れた人間。

 それでもなお、剣を抜かずに立った二人。


 いくつもの未来分岐が、静かに閉じられていく。


 ルシフェルは、わずかに視線を落とした。

 そこに地上は見えない。

 だが、確かに残響だけが届いている。


「神は、期待されることで機能する」


 そして、ほんの一瞬だけ。


 感情と呼ぶには薄すぎる、

 だが完全な無機でもない揺らぎが、その瞳を横切った。


「……否」


「期待を壊した後に残るものこそ、観測対象だ」


 記録は、保存された。


 人類はまだ救われていない。

 だが、神に委ねる段階を越えた。


 それは進化でも、堕落でもない。

 ただの移行だ。


 ルシフェルは、背を向ける。


 次に地上へ干渉する条件は、まだ満たされていない。


 金色の光は、完全に収束し、

 世界の管理階層から、その存在は一時的に切り離された。


 観測は続く。


 だが、もう同じ視点ではない。


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚ブクマに置いてもらえたら励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ