救われない代償
旧行政庁舎の地下は、昼でも薄暗かった。
崩れた天井から差し込む光が、埃を金色に浮かび上がらせている。
カイは、歯車の残骸から少し離れた場所で立ち止まった。
「……イリス」
名を呼ばれ、彼女は足を止める。
「先に言っておくことがあるんだ」
声は落ち着いていた。
決意でも懺悔でもなく、ただ事実を告げる響き。
「俺が歯車を壊した代償のこと」
彼は救済を拒んだのではない。
武器使用の代償として、救済される側から、
外されたのだ。
それでも前に進むと決めたのは、
ほかならぬ人間の側であった。
イリスは何も言わず、続きを待つ。
「あれで俺は、恐らく救済の系から外れた」
一拍。
「神の奇跡も、未来予測も、もう対象じゃない」
イリスの指が、わずかに震えた。
「……つまり?」
「俺は助からない側だ」
淡々とした口調。
まるで他人の話をするように。
「待っていれば救われる、っていう順番から外れたんだよ」
イリスは唇を噛み、やがて言った。
「……それ、あなた一人が背負うこと?」
カイは答えない。
代わりに、イリスが静かに続ける。
「私にもある」
彼女は胸元に手を当てた。
「体内魔力をオーバーヒートさせる、核の自爆」
カイの眉がわずかに動く。
「……使うな、そんなもの」
即答だった。
イリスは首を振る。
「同じよ。あなたが戻らない側に立つなら、私だって」
少しだけ声が震える。
「それでもね、カイ」
彼女は真正面から彼を見た。
「あなたは、幸せになっていい」
カイの目が、わずかに見開かれる。
「自分を外したまま進むなんて、そんなの間違ってる」
言葉が、途中で途切れた。
「……イリス」
「答えなくてもいいよ」
彼女は、うまく笑えなかった。
「ただ、覚えてて。
あなたが諦めても、私は諦めない」
イリスのその言葉のあと、空気が変わった。
地下にまで、かすかな金色の光が差し込む。
カイは、ゆっくりと振り返る。
地上。
崩れた都市の中心に、ルシフェルはいた。
翼を広げるでもなく、裁きを告げるでもなく、
ただ、そこに存在している。
カイは歩き出した。
イリスは止めなかった。
◆
都市中央広場。
ルシフェルの周囲だけ、音が削ぎ落とされたように静まり返っている。
誰も近づかない。
だが、誰も目を逸らせない。
まだ何かが起きる。
その期待だけが、群衆を縛っていた。
その中で、カイは一歩前に出た。
「カイ……」
背後で、イリスが名を呼ぶ。
確認するような声であった。
カイは振り返らない。
ルシフェルは、微動だにせず立っている。
生き物というより、置かれた像のようであった。
「……聞こえてるんだろ」
声を張る必要はなかった。
「俺たちは、逃げてない」
返事はない。
だが、無視とも違う。
見られている。
この場のすべてが、等しく。
イリスが、そっと隣に並ぶ。
「……剣、抜く?」
カイは首を横に振った。
「意味がない」
そういう段階ではないと、理解していた。
その時、空気がわずかに淀んだ。
音ではない。
空間自体が、意識を向けた感覚。
ルシフェルの視線が、カイに定まる。
見られている、ではない。
測られている。
イリスが息を呑んだ。
これは対話ではない。
観測だ。
「……目的は何だ」
カイは問う。
「救いか。裁きか。
それとも、壊しに来たのか」
沈黙。
やがて、低く澄んだ声が落ちた。
「目的は、結果ではない」
怒りも、慈悲もないルシフェルの声。
周りの誰かが、「おお……(喋った)」と感嘆する。
「私は、確認している」
「……何を?」
ルシフェルの視線が、都市全体へ広がる。
崩れた建物。
祈る者、怒る者、絶望する者。
そして、砕けた歯車。
「神が現れた時」
「お前たちは、何を期待するのか」
カイの背筋が冷えた。
選別ではない。
観測対象は、人類そのものだ。
「……期待はもう壊した」
カイは言う。
「救われる順番も、正しい未来も」
ルシフェルは、わずかに首を傾げた。
「それは、破壊ではない」
静かな否定。
「理解だ」
その一言が、深く刺さった。
イリスが前に出る。
「じゃあ、私たちはどうすればいい?」
ルシフェルは彼女を見る。
そこには、かすかな興味があった。
沈黙。
剣を抜く理由は、完全に消えた。
ルシフェルは視線を空へ戻す。
「観測は続く」
「結果は、まだ必要ない」
金色の光が揺らめく。
次の瞬間、ルシフェルの姿は消えていた。
誰も、追えなかった。
広場に、ざわめきが戻る。
怒号も、祈りも、泣き声も。
だが、もう同じではない。
カイは、拳を開く。
「……戦わなくてよかったな」
イリスは小さく笑った。
「うん。たぶん、あれと戦うのは
間違いだった」
二人の足元で、砕けた歯車が光を反射している。
もう、回らない。
だが、
どこにも繋がらないその破片が、
確かに“今”を照らしていた。
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