歯車は、回らない
「おかしい」
誰かが言った。
夜が明けても、都市は何も変わらなかった。
封鎖線の内側では、まだ人々が空を見上げている。
堕天使ルシフェルは、あの場所にいる。
黄金の羽根はすでに降り止み、ただ静かな光だけが、廃墟の中心に残されていた。
救急車のサイレンは鳴らない。
死者は蘇らず、衰弱した者の容態も回復しない。
崩れかけた建物は崩れかけたまま、世界は昨夜の続きを、何事もなかったかのように引きずっている。
「神が降りたんだぞ」
「十二枚の羽根、あれは堕天使ルシフェルだ。聖書にも記されている」
「なら、次があるはずだろ……?」
臨時指揮所では、軍人と研究者、そして宗教関係者が同じ卓につき、同じ沈黙を共有していた。
誰もが同じ前提を、言葉にせず信じている。
──神が現れた以上、世界は次の段階へ進む。
それは信仰というより、常識であった。
「聖書では、ルシフェルは光をもたらす者です」
白髪の神学者が、震える指で頁をなぞる。
「裁き、あるいは更新……少なくとも、世界に意味ある変化が起きる」
研究班の男が、壁面モニターを示した。
そこには、巨大な歯車構造、かつて都市の象徴として作られた、発電制御用のスプロケットが映っている。
「システムと考えればいい。
条件は満たされた。あとは歯車が回るだけだ…」
誰も反論しなかった。
世界は、原因があれば結果が生じる。
歯車は、噛み合えば必ず回る。
そうでなければ困る。
だが。
正午を過ぎても、夕刻になっても、
歯車は回らなかった。
誰かが、堕天使の前に進み出た。
防護服を脱ぎ捨て、聖書を胸に抱えた中年の男であった。
「お願いします」
声は、驚くほど小さかった。
「どうか……民を救ってください」
「私たちは、もう十分に罰を受けました」
彼は膝をつき、額を地につける。
周囲で、人々が息を止めた。
聖書に書かれている通りなら。
神話が本当なら。
ここで何かが起きるはずであった。
だが、ルシフェルは動かなかった。
視線だけが、ゆっくりと男に向けられる。
敵意も、慈悲もない。
ただ、観測するような眼差し。
やがて、男は理解してしまった。
祈りは、届いている。
だが、この神は答える気がない!
「……なぜ」
声が掠れた。
「なぜ、何もしない……神様?」
ルシフェルは、答えなかった。
完全に無視している。
というより、最初から、
返されるべきものが存在しなかった。
彼は、救うために来たのではない。
裁くためでもない。
この世界が、
神を必要としない場所になったかを、
確かめに来たのだ。
彼の視線が、男の手に握られた聖書から、
遠くの歯車構造へと移る。
人ではなく、
人間が作った「意味」だけを見ていた。
巨大なスプロケットは、沈黙したまま空を切り取っている。
噛み合う相手を失った歯は、ただ存在している。
世界は、機械ではない。
その事実だけが、突きつけられた。
広場の端で、カイは歯を食いしばった。
「……やっぱりだ」
「カイ……?」
イリスが不安そうに名を呼ぶ。
「期待してたんだ、みんな」
「神が来たら、次の展開が始まるって」
カイの目は、ルシフェルから逸れない。
「でも、あれは……」
「物語の中の神じゃない」
沈黙。
そのうち誰かが、泣き出した。
次に、怒号が上がる。
祈りは罵倒に変わり、希望は理解不能な沈黙へと崩れていく。
「……祈ったって、縋ったって、何も助けちゃくれないんだ」
誰かのいじけた声。
泣いていたのか、怒っていたのか、もう分からない。
期待が裏切られる瞬間。
だが、ルシフェルは変わらない。
救わず、裁かず、
歯車を回すこともなく。
ただそこに立ち、
人類が自分たちの作った神話を失っていく様を、
静かに見届けていた。
その姿は、
あまりにも美しく、
そして、あまりにも残酷であった。
◆
都市中央、旧行政庁舎の地下に、それはあった。
かつて世界の復旧計画を管理するために造られた装置。
国家と宗教と科学が共同で名付けた名称は、
《循環調律機構》。
巨大な歯車が幾重にも噛み合い、
今はもう何も生み出さないまま、静止している。
それでも人々は信じていた。
神が降りたのなら、
いずれこの歯車は再び回り出す、と。
──救済の順番が、来るはずだと。
カイは、歯車の前に立っていた。
金属の匂い。
油の乾いた痕。
人間が「理解できる形」に落とし込んだ希望の残骸。
「……まだ、これを信じてるのか」
誰に向けた言葉でもなかった。
背後では、軍の監視ドローンが沈黙し、
観測装置のログはすべて停止している。
天使が降りた今、
この装置はもはや神を待つための祭壇に過ぎなかった。
カイは、歯車に手を伸ばした。
冷たい。
ただの金属だ。
「救われる予定」
「次は正しい世界」
「神が来たら全部変わる」
そんな歯車、最初から存在しない。
彼は、拳を握った。
力を込めたわけではない。
怒りや祈りでもなかった。
ただ、
回らないものは、壊すしかないと理解しただけだ。
鈍い音が響いた。
次の瞬間、
歯車の中心軸に、一本の亀裂が走る。
ギギ、という不快な金属音。
噛み合っていた歯が、ひとつ、またひとつと外れていく。
そして。
砕けた。
巨大な歯車が、意味を失った破片となって床に崩れ落ちる。
その瞬間、
都市全域の観測ログが一斉にエラーを吐いた。
【未来予測:不可能】
【救済工程:未定義】
【神性介入:反応なし】
……当然だ。
カイは、崩れた歯車の前で立ち尽くす。
背後から、誰かが息を呑む気配がした。
怒号も、制止もない。
皆、理解してしまったのだ。
もう、待つ理由がなくなったことを。
その時。
空気が、わずかに揺れた。
視線を上げると、
遠く、廃墟の向こうの空に、金色の光が滲んでいる。
ルシフェルは、こちらを見ていた。
初めて。
本当に、初めて。
裁きや評価でもなく。
ただの「観測」。
カイは目を逸らさなかった。
「……回さないなら」
低く、しかしはっきりと告げる。
「俺たちが進むだけだ」
金色の羽根が、一枚だけ、風に舞った。
それは、答えではなかった。
だが確かに、
神が、人類を評価した瞬間であった。
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