静かな絶望
タナトスによる大規模異変の爪痕が残る封鎖都市。
人々が次なる破滅か救済を待つ中、
空から降臨したのは、裁きも救いも与えない堕天使ルシフェルだった。
今やこの地上の神となった彼は、何もせず、何も語らない。
それでも人類は理解してしまう──
この存在は、希望よりも残酷である、と。
その都市では、死が終わらなかった。
人々は生き延びたが、救われた者は誰もいない。
そして、タナトスパニックの消失から三日。
都市は国家管理下に置かれ、外周は完全封鎖されていた。
死者数は確定せず、生存者の多くは原因不明の衰弱状態にあり、
「死にきれなかった街」として、連日ニュースの見出しを占めている。
タナトスの残した死の余波が、まだ消えぬその街に、
黄昏がゆっくりと忍び寄っていた。
大通りは今や深い沈黙に包まれている。
その時、空が裂けた。
音もなく、突然に。
夕焼けの赤と、ビルの灰色が混ざり合う空に、一筋の亀裂が走った。
それは少しずつ広がり、虚空への窓のように開いていく。
その裂け目から、まず一片の光が零れ落ちた。
光は羽毛であった。
黄金色の光沢を帯びた一枚の羽根が、ゆらりと舞い降りる。
それは地上に触れることもなく、空中で静止した。
続いて第二の羽根、第三の羽根。
やがて静かな新雪のように降り始め、すべての音を吸い込む沈黙の中で、街を覆っていった。
裂け目が最大に広がった時、彼は現れた。
最初は遠くの星のように小さな影だった。
重力に逆らうことも急ぐこともなく、ただ堕ちてくる。
Fallen angel Lucifer_堕天使ルシフェル。
その姿が次第に鮮明になるにつれ、周囲の風景が、なぜか背景のように褪せていった。
彼はかつての輝きを失ってはいない。
むしろ、全てを失ったからこそ到達した深みのある美しさを纏っていた。
漆黒の長髪は、揺れる炎のように風になびく。
堕天の際に焼け焦げたはずの翼は、今も白夜そのものを織り込んだように神々しく、
一枚一枚の羽毛には星々の名残りが宿っているようであった。
その目は、黄昏の空よりも深い金色。
かつては純粋な光で満ちていたその瞳には、数え切れない星霜と、
ある種の諦観が静かに沈殿していた。
彼の顔は完璧な彫刻のように美しく、しかしその美しさには、
永遠の傷を負った者だけが持つ深い影があった。
ルシフェルの唇が、ほんの少し動いた。
言葉ではなく、ため息のような、しかし音楽の断片のようなものが、周囲の空気を震わせた。
彼の周りでは、金色の羽根がまだゆらゆらと降り続けている。
一つ一つの羽根が地面に触れる直前、微かな光を放ち、消えていく。
それは星の終焉でもあり、新しい何かの始まりでもあった。
ルシフェルは緩やかに降臨する。
その光は死によって汚された都市を浄化する優雅な舞踏に見えた。
街全体に広がる死。
そこには、かつて人々が集い、笑い、生きていた痕跡が、痛ましいほどに残っていた。
ルシフェルの目に、一瞬だけ、遠い記憶の光が走った。
天国の庭で、無数の魂の歓喜を見守っていた日のこと。
「それでも」
彼の声は、初めてこの沈黙を破った。
それは水晶が砕けるような、しかし温もりを残した音であった。
絶望後に残った構造、なお維持される秩序は───美しい。
そう心で呟くと、
堕天使の背後で、黄金の翼がほんのりと広がり、最後の黄昏の光を優しく遮った。
だが、彼の降臨は、この死に半ばした都市に、静謐な美しさ以外に何の意味も与えなかった。
やがて完全に夜が訪れ、星々が現れ始める。
彼の影が月明かりに伸び、ビルの海を覆う。
彼は救済も破壊ももたらさない。
ただ、この終わったものたちの傍らに、ゆったり佇んでいる。
彼の周りだけ、不思議と星明かりが集まり、廃墟に淡い金のベールをかけている。
◆
封鎖線の内側で、人々は声を失っていた。
泣く者はいない。叫ぶ者もいない。
ただ、立ち尽くして、空を見上げている。
つい数時間前まで、彼らは、
「次は助かるはずだ」と信じていた。
あれほどの阿鼻叫喚地獄に見舞われた後、
今度こそ神は安らぎの慈悲を与えてくれると。
誰かが膝をついた。
別の誰かが、祈るように手を組んだ。
「……神様」
誰かの呟きが、静かな夜気に溶ける。
廃墟の広場の端で、
カイは無意識に目を細めた。
——眩しい、と思った。
それが希望なのか、
それとも、もう戻れない光なのか、
彼にはまだ分からなかった。
カイは一歩、前に出た。
視界の中央に立つ、あまりにも整いすぎた存在から、目を逸らせない。
「……違う」
声は低く、確信だけがあった。
「ルシフェル……あれは人類にとって味方じゃない」
隣で、イリスが息を呑む。
「でも……綺麗……」
震える声で、そう言ってしまったことを、彼女自身が一番恐れていた。
黄金の羽根が、ひらひらと地に落ちる前に消える。
その場所に、何も残さないまま。
ルシフェルは、こちらを見ていた。
敵意も、関心も、選別もない。
ただ──
そこにいるという事実だけを、突きつけるように。
カイは拳を握りしめ、イリスは唇を噛む。
誰も、声をかけられなかった。
この存在は、
言葉を投げかけることで、壊れる類のものではないと、
本能が理解してしまったからであった。
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