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裁かれ得ぬ余白

 信号が、ほんの一拍、遅れた。

 赤から青へ変わるまでの間が、

 なぜか異様に長く感じられた。


 通りを歩いていた男が、足を止める。

 胸の奥がむかつくように重い。

 息を吸っても、肺の底まで空気が届かない。


 隣を歩いていた女が、顔をしかめた。

 目の焦点が合わず、

 視界が、わずかに二重になる。


 誰も、言葉にしない。

 言葉にするほどの異常ではなかった。


 だが、街全体が、

 ほんの少しだけ、現実からずれ始めていた。


 アスファルトの上に立つ自分の足が、

 地面に「触れていない」ような感覚。


 遠くでクラクションが鳴る。

 その音が、妙に平坦に聞こえた。


 街は、まだ日常の中にあったが、

 明らかに、人類を拒み始めていた。



 広場の中心で、空気が沈んだ。

 匂いや色はなく、ただ、重い。


 そこに立っていたのは、

 一人の男であった。


 黒でも白でもない衣。

 影のように揺らがない足元。



 Thanatos_ 死を司る魔神。



 その異質な静けさを纏う姿を前にして、

 通りを歩く人々の表情は凍りつき、

 心臓は激しく脈打ち、呼吸は浅くなる。


 視界が二重に重なり、現実感が薄れていく者、

 正気を保とうと必死に目を擦る者、

 悪心に顔を歪めて膝をつく者、

 悲鳴を上げながら逃げ惑う者。

 彼らは、得体の知れない力に弄ばれる操り人形のようであった。


 タナトスは世界の余白が全て具現化したかのように、

 巨大な渦の中心で微動だにせず、白磁の指先で循環の溝をそっと触れる。

 その繊細な接触は、弦楽器の糸を爪弾くように、

 生命の微細な揺れを共鳴させ、現世に押し出す。


 耐性のない者は、その揺れに耐えられず、次々と倒れていく。

 恐怖のあまりパニックを起こして暴れ出す者、

 胃の内容物を激しく嘔吐し、白目を剥いて意識を失う者すらいた。


 混乱が街を覆い尽くし、警報やサイレンのけたたましい音も、もはや意味をなさなかった。


 世界は異常を深く、深く刻み込んでいく。

 彼が一歩踏み出すたび、寿命がずれる。


 まだ生きているはずの身体が世界との接続を失い、

 心臓は鼓動を続けながら意味を忘れる。


 肺は空気を取り込みながら酸素を拒む、

 絶望は感情になる前に分解される。


 生きる理由を世界から剥がされた、それは腐蝕でも汚染でも、悪意ですらない、

 生命の終点という規則の一端に触れてしまった結果だ。


 タナトスは選んでいない、世界を通過しているだけだ。だからこそ止められない。



 ◆



 彼の存在は、

 現世の空間を押し広げていた。


 余白。

 それは「死」そのものではない。


 死に至る直前。

 誰も、理由を理解できない。


 救急車の音が、

 遠くで鳴り始める。


 タナトスは、掌を開く。


 闇が零れ落ちる。


 やはり、脆い。

 人間は弱い。

 だが、それは欠陥ではない。


 そして、ルシフェル。

 黄金の翼を閉じ、裁きを躊躇う神。


 タナトスは、

 その判断を否定しない。


 だが、同じでもない。


 それが、

 どれほど残酷かを、

 タナトスは知っている。


 だから彼は、

 踏み込み、

 触れ、

 記録する。


 裁かず、

 救わず、

 ただ、調律する。


 それが、

 自分に与えられた役割だと、

 信じていた。





 タナトスの背後で、

 アグラトは、空気のように佇んでいた。


 水平にした片手を額に当て、庇のようにして、

 死の拡張を抑えている。


 彼女がいなければ、

 街はすでに崩壊していたであろう。


 それでも、

 完全には止められない。


 その、さらに向こう。


 冥界の深層で、

 ペルセポネは名簿を閉じなかった。


 一つの名。

 書かれるはずだった名前。


 彼女は、

 それを記さない。


 死者としても、

 生者としても。


 その結果は、

 現世に静かに現れる。


 倒れていた男が、

 微かに息を吸った。


 苦しむ人々の間に、

 ほんの一歩分の空間が生まれる。


 道端に、

 季節外れの草が芽吹く。


 それは、

 世界が「続く」ための、

 最小限の余白であった。



 ◆



 夜が明ける。


 街は、

 何事もなかったかのように動き出す。


 倒れた者がいた。

 命を落とした者もいる。


 だが、

 生き延びた者も、確かにいた。


 世界は終わらなかった。


 タナトスは、

 余白の中心から立ち去る。


 ペルセポネは、

 名簿を閉じない。


 裁きは下されず、

 赦しも与えられない。


 それでも、

 循環は、禍々しく淀みながら続く。


 ──終わらなかった空白が、

 確かに、現世に刻まれていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚ブクマに置いてもらえたら励みになります。

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