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緩やかな波紋

 その夜、

 飲食店から救急搬送された少年は助かった。


 理由は説明できない。

 医師は首を傾げ、

 母親は泣き、

 世界は何事もなかったように朝を迎える。


 少年は、

「死ななかった人」の夢を見た。


 少年の夢は、現実とは少しずれていた。


 死の匂いも、恐怖も、涙も混ざらない。

 ただ、暖かく光る何かが、手の届かぬところで揺れていた。

 名前のない存在。

 見知らぬ誰か。

 自分が「ここにいる」と、はっきり実感できるもの。


 少年は目を覚ます。

 夜の灯りに照らされる部屋は、

 何事もなかったかのように静かであった。


 胸の奥の小さな震えは消えない。

 それは死でも、生でもない。

 少年はその違和感を、ただ夢と呼んだ。



 ◆



 翌朝、現世の街は通常通り動いていた。

 ただ、空気の感触が少し変わっている。

 夢を見た少年も、他の誰も、その違いを言葉にできない。

 だが、確かに何かが、少しだけ軽く、少しだけ柔らかくなっている。


 公園の芝生には、季節外れに芽吹いた小さな草がひっそりと残っていた。

 誰も踏まないその場所で、緩やかな風が葉を揺らす。

 その動きは、死の縁をかすめた者だけが感じる、不思議な安心感があった。


 街を行き交う人々は、何も知らない。

 誰もが知らずに、春を一歩ずつ受け取る。

 終わらなかった空白が、確かに、現世に残った結果であった。



 ◆



 冥界の最下層。

 嘆きの川コキュートス。


 その物悲しげな流れの畔。

 ペルセポネの周りには、

 亡者の号泣の声が漂う。


 彼女は、死者の名簿を閉じない。


 彼女はその名を、

 死者としても、

 生者としても、

 書かなかった。


 頁の余白に、

 何も記されなかったその場所から、

 季節外れの芽が、一本だけ伸びていた。


 循環の端は歪み、

 それでも、続いた。


 それは、

 彼女が書かなかった結果であった。


 名簿は閉じられず、書き足されることもない。


 その紙の端に、残った湿り気は、

 誰かの涙ではなく「残り時間」の痕跡でもない。


 ただ、世界がほんの少しだけ空白を持っている、

 ということを示すものであった。


 彼女は指先で紙を撫でる。

 触れれば温もりを感じそうで、しかしそこには触れられぬものがある。

 生でも死でもない、確固として存在する生命の寿命と輪廻。


 ペルセポネは指先を紙に置きながら、ひっそりと想い出を巡らせる。

 かつて名簿に記された者たち、名前を消され忘れ去られた者たちのこと。

 そのひとつひとつが、緩やかな波紋となって世界に残る。


 書かぬことは、記録しないことではない。

 むしろ、残すべきものを残すための最も慎重な行為であることを、彼女は知っていた。


 それが、世界にほんの少しだけ柔らかさを残す唯一の手段なのだと。


 芽吹いた一本の季節外れの草は、踏まれず、

 守られず、ただそこにある。


 それは救いでも、希望でもない。

 世界に「続くべきもの」が残った証だ。


 ペルセポネは静かに息を吐く。

 裁かぬ選択は、赦しでも否定でもない。


 世界のわずかな呼吸を守ること、それだけが、彼女の役割であった。


 それは終わらない。

 終わらせない選択が、はっきりと現世に現れていた。



 ◆



 ルシフェルは黄金の十二枚の翼を閉じ、

 天の空間に漂いながら、答えの出ぬ思索を繰り返していた。


 ──異物を裁けば、神話は終わる、その事実が私を縛っている、断罪することで、現実世界の秩序を壊すリスクがある、神の干渉が再び混沌の原因となる、世界が人間のものでなくなる、世界の微細な均衡を崩さず支配するために、裁かぬ選択だけが、その循環を守る……まさかこの私が、このような、つまらぬジレンマを抱えるとは……全く面白い。

 開発者の残党オルド、そして、タナトスたちは境界を越えた、彼らが触れたのはただの死ではない、生命の綻び、人間がいつか必ず踏み外す余白。

 神にはそれらが世界の正しい姿であるどうか、判別する義務がある、ゆえに私は、見て、そして記録した、裁きを準備しながら、あえて槌を振り下ろさなかった、これは赦しではない、選択、終わらせないという、最も重い選択である……


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚ブクマに置いてもらえたら励みになります。

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