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ペルセポネ

 タナトスは、天を見上げた。


 暗灰色の星が一つ。


 光を放たない。

 反射もしない。


 ただ、空に穴が空いたような暗点。


 ハデスは、姿を見せない。

 だが確かに、来ている。


 冥界が、現世と重なった証だ。

 返事は、空からではなかった。



 雲の向こう。


 黄金の翼が、ゆっくりと広がる。

 ルシフェルは、降りてこない。


 だが、見ている。


 ファミレス。

 一人の死。

 境界の歪み。


「……確認した」

 特別な感情はない。


 怒りでも、悲しみでもない。

 ただ、事実を受け入れる。


「現世で、神話が介入したか」



 地上では、

 救急車の赤色灯が、店内を照らしている。


 客たちは、無言で見守る。


 誰も、神を見ていない。

 誰も、理由を知らない。


 ただ人間が一人、

 死んだ。


 それだけだ。


 心筋梗塞だった。

 医師はそう記録するだろう。


 だが、

 空のどこかで、

 境界に刻まれる。


【死:記録開始】


 それは取り消し不能であった。


 

 ルシフェルは、翼を閉じる。


 裁きは、準備されている。

 世界はまだ、人間のものだ。


 だが、それを決める権利は、

 もう、人間だけの裁量ではない。



 ◆



 出来事は、冥界にも記録されなかった。


 死者名簿は、静かなままだ。

 増えていない。

 削除もされていない。

 本来なら、この瞬間に一行増えるはずであった。


 ただ、

 紙の端が、ほんのわずかに湿った。


「……また、春を迎えられなかったのね」


 石の床に、季節外れの花弁が一枚落ちる。


 そこに立っていたのは、

 冥界の女王、ペルセポネ。


 ハデスのように老いておらず、

 女王としての凛とした威厳と、

 同時に儚い少女の柔らかさを湛えていた。

 そんな彼女は、神話の中で最も切ない乙女の一人であった。


 ペルセポネは名簿を閉じなかった。

 頁を戻しもしなかった。


 彼女は、

 その名を死者としても、

 生者としても、書かなかった。


「……パンドラの時と、似ているわ」


「でもあの子は箱を持っていなかった」


 世界のどこかで起きた欠損を、

 彼女は確かに感じ取っていた。


「裁きは、いつも正しいと思われがち」

 ペルセポネは、静かに息を吸う。


「でも」

「正しい裁きが、春を殺すこともある」


 花弁は、音もなく消えた。

 冥界は、まだ沈黙している。



 ◆



 傍に花の匂いがあった。

 季節外れだと彼女は思ったが、

 何の花かは分からない。


 甘いわけでも、強いわけでもない。

 ただ、ここに「残っていた」


 パンドラは気づくと、そこにいた。


 生成りで、派手な服ではない。

 目を引く色でもない。

 なのに、背景から切り取られたように、はっきりと立っている。


 若いのか、そうでないのか判然としない。

 顔立ちは整っているとも、そうでないとも言い切れない。

 その中で彼女の手は圧倒的に美しかった。

 姿を見たはずなのに、誰もが彼女の細部を思い出せない。


 ただ、

「今ここにあるべきは、この子が正しく最適だ」

 そう思ってしまう。


 足元には、枯れかけの草と、芽吹いたばかりの葉が混じっていた。

 どちらも踏まれず、等しく残っている。


 彼女は、何も言わない。


 そして、

 この場所が終わっていないことだけは、分かった。



 ◆



 静かな冥界の回廊。


 水も流れていないのに、

 どこか湿り気を帯びた空気がある。


 石の長椅子に、二人の女が並んで座っていた。


 一人は冥界の女王、ペルセポネ。

 もう一人は、自身の意味を無くした女。


 彼女は箱を持っていなかった。

 かつて持っていたそれは、

 もう世界のどこにも存在しない。


「また、記録に残らない死ですか?」


 パンドラが言った。

 声は低くも高くもなく、

 感情の置き場を持たない音であった。


「死ですらないわ」

 ペルセポネは答える。

「もちろん……生でもない」


 パンドラは、指先を見る。

 白く、傷一つない手だ。


「戻れなくても、巡ればいい」

 それは誰への言葉でもなかった。



「私は、循環を守る。それが完全でなくても」

 ペルセポネは、足元に咲いた花を見た。

 枯れかけの草の間から、

 季節を間違えたように芽吹いた一輪。


 パンドラは、その花を踏まなかった。

 かといって、守るように囲うこともしない。


「希望は、残りましたわ。

 でも、それは救いじゃない」

 パンドラの冷えた声。

 ペルセポネは否定しなかった。


 二人は並んで座り続ける。

 触れ合うことはない。

 だが距離も、離れない。


 冥界は沈黙している。


 それは拒絶ではなく、

 これ以上は許さないという境界であった。


 刻を経てパンドラが去ったあと、

 冥界には再び静けさが戻った。


 ペルセポネは、名簿の前に立っている。


 閉じない。

 書き足さない。


 ただ、指先を紙の端に置いた。


 湿り気は、まだ残っている。


「これは誰の涙でもないのね」


 冥界の女王は、春を司る。

 だが春は、命を救わない。


 芽吹きは、等しく訪れる。

 それが遅れた者を、待ちはしない。


(……それでも)


 声に出さず、思考だけが動く。


 もし循環が完全であったなら。

 もし裁きが、寸分の狂いもなかったなら。


 世界は、もっと正しく。

 もっと冷たく。

 そして、もっと早く終わっていた。


 ペルセポネは知っている。


 春とは、

 正しさではなく、

 間違いが残される季節だということを。


 彼女は花弁を拾わない。


 拾ってしまえば、

 それは守るべきものになってしまう。


 だから、残す。


 踏まれないことを祈るだけで。


 冥界を離れたあと、

 パンドラは振り返らなかった。


 振り返れば、

 そこに意味を探してしまうから。


 希望とは、

 与えられたものではない。


 残ってしまったものだ。


 箱の底にあったそれは、

 祝福でも、慈悲でもなかった。


「それはただ、

 終わらせることができなかった、という事実」


 だから人は、歩き続ける。

 世界は、止まらない。


 パンドラは、空を見上げない。


 星を見る資格は、

 とうに失っている。


 けれど、その足も止まることはなかった。


 彼女の後ろに、

 芽吹きかけの草が一本だけ残っていた。


 それは彼女のためではない。

 誰のためでもない。


 ──人はそれを、希望と呼ぶ。


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚ブクマに置いてもらえたら励みになります。

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