境界執行官(エンフォーサー)
夜の街はひっそりと沈んでいた。
音も振動もない。
しかし、空間が歯噛みするように息を詰めていた。
「……止まれ」
カイは反射的に叫び、イリスの腕を掴んだ。
信号機が、すべて同時に赤へ切り替わる。
ブレーキ音。
クラクション。
だが衝突は起きない。
車も、人も、
数センチ手前で止められている。
「こ、これって……」
イリスが違和感を感じ取る。
ビルのガラスに、亀裂が走る。
割れない。
落ちない。
まるで、
世界が一時停止を命じられたかのよう。
空を見上げたカイは、言葉を失う。
雲が、ほどけていた。
いや。
引き剥がされ、
その奥から、何かが落ちてくる。
光でも、影でもない。
輪郭だけを持った存在。
人の形に近く、
だが明らかに、人ではない。
【境界異常を検出】
空間が、直接声を発した。
【干渉者未登録】
【世界整合率:低下】
【修正処理を開始】
「……世界が、喋った?」
イリスの声が震える。
“それ”が地面に降りた。
静かに。
衝撃もなく。
そして、
街の一角が、ごっそり消えた。
道路。
街灯。
自販機。
最初から存在しなかったかのように、
綺麗に、削除された。
「冗談だろ……」
戦慄するカイ。
人の悲鳴が、遅れて響く。
その中心に、
境界執行官は立っていた。
人の形をしている。
だが、関節の位置が、どこか狂っていた。
それだけで、見てはいけないものだと分かった。
【対象確認】
【干渉者:オルド】
【分類:世界外来ノイズ】
空が、もう一度割れた。
今度は、
意志をもって。
黄金でも、純白でもない、
透けるような翼が、
夜空を切り開く。
「まったく……」
降り立った男が、呟く。
アスファルトに触れた靴底の下で、
世界の座標が、書き換わった。
街が、
背景データに成り下がる。
「ここは現実だぞ」
オルドは、執行官を見据える。
【修正対象、再定義】
執行官が動いた。
その一歩で、
ビル一棟分の距離が消える。
──速い。
だが。
オルドは、避けなかった。
手を伸ばし、
歪んだ空間を掴む。
「悪いな」
静かな声。
「これは俺の管轄だ」
言葉と同時に、
街の一角が、白く反転した。
世界が、
編集されている。
執行官は、更に踏み込んだ。
足音はない。
だが、その一歩で空間が歪む。
ビルとビルの距離が、意味を失った。
直線も曲線もなく、ただ最短でオルドに到達するためだけの移動。
「……なんて速さ」
イリスが息を呑む。
視界が、追いつかない。
だが。
オルドは、再びそこにいた。
消えない。
退かない。
代わりに、
世界のほうがズレた。
執行官の拳が、
オルドの胸を貫く寸前で止まる。
正確には、
胸が存在しない座標を殴っていた。
「処理が荒いな」
オルドは淡々と告げる。
「現実は箱庭ほど、融通が利かないんだ」
そう言うと
彼の背後に、幾何学的な光が展開される。
魔法陣ではない。
神話でもない。
管理者用インターフェース。
「権限、限定開放」
空気が凝縮される。
街の上空に、
目に見えない格子が走った。
それは攻撃や防御ではなかった。
これ以上、この範囲を編集するなという宣言だ。
【警告】
【干渉範囲、制限されました】
執行官が、初めて動きを止める。
きょとんと首を傾げる。
理解しかねている仕草。
【未定義権限を確認】
【処理優先度、再計算】
「再計算してる暇はないぞ」
オルドは、片手を上げた。
その仕草だけで、
街の明かりが、一斉に落ちる。
闇。
だが完全な暗闇ではない。
人間の輪郭だけが、
淡く残されている。
──人を消すな。
──世界を軽くするな。
オルドの声は低い。
だが、怒りはない。
「それをやった瞬間、
ここは人間用じゃなくなる」
執行官の身体に、
初めてノイズが走る。
形が、揺らぐ。
【想定外】
【価値判断、衝突】
瞬間、
執行官の身体が跳んだ。
世界の外側へ。
空が、裂ける。
裂け目の向こうに、
無数の管理ログの残骸が見えた。
だが、
完全離脱はできない。
オルドが、闇に塗れた空間を指で制御する。
「逃げ道は、残す」
「だが」
指が、止まる。
「お前の好きにはさせない」
裂け目が、閉じた。
執行官は、
夜空に固定されたまま、動かなくなる。
拘束。
封印。
否。
保留だ。
【処理状態:凍結】
【再開条件:未設定】
静寂が戻る。
信号が、再び動き出す。
車が走る。
人が、息を吹き返す。
「……夢、じゃないよな」
カイの声が、震える。
オルドは、振り返らなかった。
ただ、天を仰ぐ。
厚い雲のさらに向こう。
見られている。
確実に。
「……来い。ルシフェル」
小さく呟く。
「この俺を裁くんだろ」
世界が、雷鳴のごとく轟音をあげた。
黄金の翼は、
まだ、降りてこない。
だが。
次は、観測じゃ済まない。
それは、
オルドにも、分かっていた。
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