世界が狭くなる夜
アプリケーション『箱庭』──
かつては、擬似世界管理、世界シミュレーション、
神話干渉の安全検証を目的として設計された実験環境である。
HK-015、第15次箱庭世界は、現在も稼働中と判定されている。
ただし。
人口維持率は、初期値の3.2%。
都市機能は、形式上のみ存続。
農村部は全滅判定。
交通、交易、宗教、文化。
いずれも更新ログは存在しない。
世界が停止しているわけではない。
ただ、人がいなくなっただけ。
生きる理由を失ったまま、
進行だけが続いている。
朝は来るし、夜も来る。
水も出る。電気も通っている。
街は、ちゃんと街のままだ。
ただ、
誰も、理由を更新しなくなった。
残った人々が世界にいる理由も、
もう、誰も教えてくれない。
村もあった。
正確には、村だった跡地だ。
家は壊れていない。
畑も耕された形跡はある。
なのに、
人だけが、途中で書きかけの文字みたいに消えている。
死んだ人間が、
どこへ行くのかは分かっている。
でも、この15回目の世界では、
誰も死なないまま、いなくなる。
冥界は、まだ健在だ。
少なくとも、この箱庭世界では、
「死」は一度も記録されていない。
だから神話は、
介入する理由を失ったままなのだ。
守られている場所は、生きている。
放置された場所は、終わり続ける。
どちらも、壊されてはいないのに。
◆
一方、現実世界。
夜の街は、静かであった。
「……なんか、変じゃないか?」
カイは、立ち止まって辺りを見回す。
人はいる。
車も走っている。
信号も、ネオンも、正常だ。
でも。
「うまく言えないけどさ……」
後ろ頭をポリポリと掻くカイ。
「ここ、前より狭くなった気がする」
隣を歩くイリスが、首をかしげる。
通りの先。
ビルの影。
何かがあったはずの場所が、
綺麗に、何もない。
瓦礫もない。
血もない。
ただ、
最初から無かったみたいに、欠けている。
「事故……じゃないよな」
カイは、胸の奥に残る違和感を、
振り払えずにいた。
恐怖じゃない。
怒りでもない。
もっと近い感情。
「誰かが、先に片付けた……?」
冗談みたいなイリスの言葉が、
なぜかカイの胸に引っかかった。
空を見上げる。
雲の向こうが、
少しだけ遠い。
カイは、無意識に呟いた。
「……今の世界、
本当に“現実世界”だよな?」
答える者はいなかった。
そうでなければ困る。
ここは、まだ——
俺たちが生きていい場所のはずだから。
◆
その夜。
中央都市の監視網の片隅で、
ひとつの異常ログが静かに生成された。
【検出対象:局所的存在欠損】
【原因分類:不明】
【物理破壊:該当なし】
【死者記録:0】
監視AIは一度だけ処理を停止し、
定義ファイルを照合した。
──該当項目なし。
欠損は爆発でも侵食でもなく、
「処理済み」に近い状態であった。
だが、
誰が、何を、処理したのかは、
どこにも書かれていない。
ログは保留扱いとなり、
深層ストレージへ送られる。
人間の目に触れることはない。
少なくとも、今は。
同時刻。
箱庭アプリの管理層、
最下層に近い領域で、
一つのフラグが反転した。
【世界干渉履歴:更新】
【干渉者:未登録】
【干渉種別:異物排除】
【権限レベル:不一致】
警告は発せられなかった。
箱庭は、
「正しい処理」が行われたと
判断しただけだ。
⸻
遠く。
雲よりも高い場所で、
黄金の翼が、ゆったりと揺れた。
ルシフェルは、
都市を見てはいなかった。
見ていたのは、
残された痕跡だ。
消された存在の、
輪郭だけが残した歪み。
「……そうか」
それは怒りでも、喜びでもない。
ただの確認であった。
「世界に触ったな」
誰に向けた言葉でもない。
だが確かに、
何者かが、
管理の外側から介入した。
そしてそれを、
世界は拒絶しなかった。
「裁きを与えねばな」
その一言で、
空気が、静かに重くなる。
裁きに警告はない。
ただ、
次に同じことが起きた時、
見逃さないと決めただけだ。
地上では、
人々が変わらず夜を歩いている。
欠けた場所に気づく者は少ない。
だが、
「前より少し狭い」と感じる人間は、
確実に、増え始めていた。
世界はまだ、
人間用である。
ただしそれは、
誰かが、そう決め続けた場合に限る。
箱庭は『切っても世界が壊れない場所』であった。
そして……この現実世界は、切った瞬間もう取り返しがつかない。
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