黒球と集合体の影
昼下がりの街は、いつもと変わらぬ光景を取り戻していた。
人々は歩き、店は開いている。
だが、全てが、どこか一拍遅れて動いているように見えた。
カイは木製のハンマーを肩にかけ、イリスは周囲を軽く見回している。
「さっきのこと、夢みたいだったね……」
イリスが微笑む。
カイも笑い返すが、その顔は少し強張っていた。
街の風は柔らかく吹く。
ライナスは上空の建物屋上から、街を見下ろしていた。
風景は穏やかに揺れているだけに見えるが、目を細めると、遠くに星のような黒い点が浮かんでいる。
ライナスはその正体を想定できた。
「あれは──冥府に連なる存在」
周期を何万回もリセットしてきた特異個体。
幾万の周期を越えて残り続ける箱庭のバグ的存在。
まだ静止しているかのように見えるが、存在そのものが因果を撹乱する。
ライナスの目には、ほんのわずかに揺らぐ空間と黒球の存在が重なる。
突然、街の奥から異様な音が聞こえた。
小さな羽音、群れのざわめき。
瞬間、地面や建物の影が微かに歪む。
「カイ、何かいっぱい来るよ!」
イリスが叫ぶ。
カイは木製ハンマーを握り、構える。
街灯の光が揺れ、影が膝ほどの高さで蠢く。
異形は一体ではない。
小さな昆虫や小動物が集まり、形を変えながら街頭の間を飛び回る。
羽音が空間に反響し、街の空気を震わせる。
「虫……!?……嫌ぁ」
イリスはあからさまな嫌悪感を示す。
疎らに残った通行人も、声を上げて建物の中に身を隠す。
異形たちの羽音が高まり、体が蠢く。
次第に小さな体は集合し、意志を持った巨人となった。
その中心部には、淡く光る小さな球のようなものが浮かび、空間を歪ませた。
それが核なのか、穴なのか、判別はできない。
核が生まれたのではなく、まるで核に向かって虫や小動物の肉体が引き寄せられているようであった。
ライナスは屋上で静かに声を潜める。
「……動き始めたか……」
遠くに見える黒球と、街の異形が微妙に共鳴するように空間が揺れる。
今ここでの直接介入は、文明圏全体を巻き込む危険を伴う懸念があった。
カイとイリスは後退しながらも、身構える。
「どうすれば…!」
イリスは短剣を握るが、まだ戦闘力は素人。
カイも木製のハンマーしか持たず、攻撃はおぼつかない。
異形の集合体は、その場でうねり、街を押しのけるように動く。
瓦礫が舞い、影が伸び、街全体が小さく震える。
どこからともなく、言葉だけが届いた。
それが声なのか、思考なのか、二人には分からなかった。
「逃げろ。直接攻撃は無理だ。遮蔽物を使え」
ライナスは静かに二人に指示を出す。
街角に散らばる瓦礫や店先の棚を盾に、カイとイリスは互いに息を合わせる。
街の路地を駆け抜けながら、彼らは初めて“戦場”を体感した。
ふと、ライナスの視界に再び黒球が映る。
冥府の存在を包んでいると思しき黒球は、星のように高く、しかし存在感は圧倒的であった。
異形の集合体が街に現れた瞬間、その因果干渉は周期のバランスにわずかな波紋を落とす。
「……やつの存在、ただの偶然じゃない」
ライナスは低くつぶやく。
「周期の修正点が、ここに来て露呈したという事か」
黒球は微かに光を揺らし、異形の集合体に反応する。
ライナスはその動きから目を離さず、カイとイリスを遠隔で守るように心を集中する。
⸻
夕暮れが近づき、街の影が長く伸びる。
異形はまだ一体化したまま、街を徘徊する。
カイとイリスは必死に避け、瓦礫の影に身を隠す。
だが、彼らの目の前で、街はいつもと違う呼吸をしていることを、まだ理解していない。
「こんなの……戦える……の?」
イリスが小さく呟く。
「わからない、いや、でも、逃げるしかない」
カイは狼狽えながら答えた。
二人はライナスの指示通り、遮蔽物の多い方向に駆けて虫の巨人から逃げ出す。
ライナスは屋上で沈黙する。
黒球の存在と集合体の動きを注視しつつ、時折指先で因果の微弱な流れを操作するだけ。
直接介入はしない。
だが、その眼差しは、二人の安全と、すでに揺らぎ始めた周期の行方を同時に見据えていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
続きが気になった方は、
そっと本棚に置いてもらえたら励みになります。




