世界内固定
箱庭の中空に瞬く黒球の中、
身を潜めていた老体が、
地の底から響くような声音で呟いた。
「とうとう、悲願を成し遂げるか、ルシフェル」
【世界拒否プロセス:停止】
【理由:対象が世界内存在へ遷移】
新宿上空。
世界を拒否していた“透明”が、
初めて、揺れた。
音でも、光でもない。
だが確かに、
何かが、決定した。
透明だった輪郭に、
わずかな「重み」が宿る。
座標が、生まれる。
上下が、定義される。
世界は臨界点に達し、
ようやくそれを、
現実の存在として受け入れ始めた。
空に雷鳴が轟いた。
——いや。
鳴ったのは、雷ではなく重力であった。
カイは、
足裏に確かさを感じていた。
久しく忘れていた感覚。
踏みしめれば、世界が返してくる感触。
「ふうっ」
息が、通る。
視界の揺れが、収まる。
【権限照合】
【ユーザー:KAI】
【階位:回復傾向】
【世界応答:正常】
(——殴れる)
その確信が、
遅れてカイの胸に落ちた。
透明であった“それ”は、
今や、はっきりと固定され、そこに在った。
霧が凝結し、
今や揺るぎなき存在として顕現した。
黄金。
それは単なる色彩を超えた、
純粋な光の輝き。
輝く十二の翼が、静寂の空間を切り裂き、
宇宙的な静謐を紡ぎ出す。
羽ばたきはない。
だが、空気が四方に逃げる。
無形が形をまとい、光は実体となる。
そして。
その足元に、
猫がいた。
どこにでもいる、
ありふれた野良猫。
白と灰の混じった毛並み。
片耳が少し欠けている。
猫は、鳴かない。
ただ、空を見上げていた。
そして。
黄金が、沈んだ。
翼が、砕けるように崩れ、
光が、縮退する。
神の輪郭が、
小さく、小さく、圧縮されていく。
猫が、立ち上がった。
骨格が変わる。
毛並みが、滑らかにほどける。
四肢が伸び、
背骨が、無理のない形で人へと移行する。
苦痛はない。
悲鳴もない。
それは、
最初からそうであったかのような変化だった。
黄金の瞳。
柔らかく微笑む口元。
ルシフェルは、
猫の姿を経て、人となり、
新宿の空に立っていた。
「あの猫は……」
カイは、眩しそうに、
神々しく輝くその存在を見つめた。
そして気づく。
恐怖が、
戻っていない。
だが、それは、
立てなくなる類のものではなかった。
「殴れるぞ」
今度は、
声に出して言った。
心臓の鼓動が、世界と同期する。
視界にエラーが出なくなる。
カイは理解する。
敵は世界そのものではなくなった。
「勝負の土俵には上がれたか」
その時。
声が、横から重なる。
「来れた…やっと、だね」
イリスが、
最初から隣に居たかのように姿を現した。
光の残滓を纏い、
しかし足取りは、確かだ。
「イリス! どうやって来た?」
「呼ばれたの……でも」
「世界が、逃げるのをやめた」
彼女は空を見上げる。
「……固定された」
「ようやくまともに戦える、ってことだよな」
カイが問う。
イリスは、
一瞬だけ目を伏せてから、曖昧に頷いた。
「ええ。
ただし——」
彼女は、
人の姿を取った神を見る。
「今度は、世界も壊れるかもしれない」
ルシフェルは、
初めてカイを見た。
見下ろさない。
見透かさない。
ただ、
対等な高さで。
「遅かったな、人間たちよ」
その声は、
猫が喉を鳴らすように、
ひどく穏やかなものであった。
カイは、拳と終打槌を握る。
世界は、もう逃げない。
敵は、殴れる。
だからこそ。
ここからが、
本当の地獄だ。
◆
【Σ7 観測ログ:更新】
事象名:Lucifer_受肉完了
位相:世界内固定
・重力定数:安定
・権限衝突:成立可能
・交戦条件:解禁
「……やっと、始まったな」
Σ7-4が諦念を込めて呟いた。
「ええ」
別の声が答える。
「今までは、準備の前座です」
「いよいよKRONOSの発動か」
Σ7-12が憂いを帯びた口調で言った。
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