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視認者

 目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。


 理由は分からない。

 ただ、胸の奥が妙に静かであった。


 心臓は動いている。

 息もできる。

 それなのに、起き上がるまでに少し時間がかかった。


 ——何かを、忘れている。


 そう思った瞬間、その「何か」の形が、頭の中から逃げた。

 思い出そうとすると、そこだけ空白になる。


 枕元の時計を見る。

 針は、正常だ。


 ……いや。


 一瞬だけ、秒針が逆に跳ねた気がした。


 男は眉をひそめたが、すぐに視線を逸らした。

 深く考えるほどのことじゃない。

 そう自分に言い聞かせる癖が、長年の会社員生活で染みついている。



 洗面所の鏡に映った自分の顔は、いつも通り。

 寝癖。

 目の下の隈。

 髭の剃り残し。


 昨日の続きだ。


 だが、どこかが違う。


 「……あれ?」


 声に出して、初めて気づいた。

 声が、山彦のように返ってくる気がする。


 歯を磨く。

 水を吐く。

 音はする。


 でも、合っていない。


 自分の動作と、世界の反応が、

 ほんの一拍、ずれている。


 

 マンションを出る。


 鍵をかける。

 ポケットに鍵があることを、二度確認する。


 エレベーターの鏡に映る自分は、相変わらず没個性的な中年男であった。

 某商社勤務。

 管理職でもなく、現場でもない。


 誰の記憶にも残らない種類の人間。


 ——そのはずだ。


 

 駅へ向かう道。

 信号は青。

 人の流れに逆らわず、歩く。


 それなのに、胸がざわつく。


 理由は分からない。

 考えようとすると、頭の奥が拒否する。


 「……気のせいか」


 そう呟いた瞬間、

 言葉の意味が分からなくなった。


 “気のせい”とは、何だ?


 自分は、何を誤魔化そうとした?


 

 ホームに立つ。


 電車が来る。

 風が吹く。

 広告が揺れる。


 全部、知っている光景だ。


 毎日見ている。

 何千回も繰り返した朝。


 なのに。


 視界の端で、

 何かが、重なった。


 

 世界の輪郭が、二重になる。


 現実の向こうに、

 もう一つの現実が、透けて見える。


 

 ……人の形をしている。


 だが、はっきりしない。


 誰かが、誰かと向かい合っている。

 神秘的な空間が、押し潰されては戻る。


 音が、意味になる前に削れていく。


 

 片方は、少年のようであった。


 輪郭が不安定で、

 それでも必死に、何かを支えようとしている。


 もう片方は——


 心がざわつく。

 見てはいけないもの。


 

 現世の空間が、奇妙に歪む。


 視線を合わせた瞬間、

 目の奥が焼けるように痛んだ。


 

 理解するより先に、

 身体が震えた。


 

 抗っている。


 あの少年は、

 神に抗っている。



 なぜ分かるのかは分からない。

 ただ、見た瞬間に男は理解した。



(あれは、勝てる戦いじゃない)



 少年が叫ぶ。


 声は、こちらには届かない。

 なのに、耳の奥が痛い。


 

 「……やめろ……」


 男は思わず、呟いていた。


 誰に向けた言葉かも分からない。


 

 そして、次の瞬間には、

 すべてが、元に戻った。


 

 電車が、到着する。

 人が、乗り込む。

 誰も、何も、気づいていない。


 

 足元に、ICカードを落とした。


 拾おうとして、手が震える。

 隣の乗客に舌打ちされる。


 それが、ひどく現実的で、

 逆に、恐ろしかった。


 

 自分だけが、

 ホームに立ち尽くしていた。


 

 膝が、笑っている。


 吐き気が、遅れて込み上げる。


 

 ——今のは、何だ。


 夢じゃない。

 幻覚でもない。


 だが、“現実”でもない。


 確信だけが、残っていた。


 

 自分は、見てしまった。


 この世界が、

 誰かの戦場になっていることを。


 そして、その戦いは、

 自分とは何の関係もないまま、

 確実に、世界を壊していくことを。


 



【観測補助ログ/新宿再生成事象】


対象:視認者候補(未確定)

識別子:V-01


発生時刻:

Lucifer_完全顕現ログ直後


異常内容:

・対象の存在係数が、再生成後も微細に揺らいでいる

・記憶改竄プロセスが完全に適用されていない痕跡

・視認情報が「定着」している可能性


備考:

当該対象は自覚なし。

現時点では一般市民として行動中。


処理判断:

保留。


理由:

排除基準に該当せず。

ただし、再接触時の反応が未知数。


「人類は、神を見てはいけない…」

 Σ7-4は苛立ちを隠さず呟いた。


【視認例外:E-017】


・一般層

・男性

・単独

・視認距離:0.0

・視認後、記憶消去処理が失敗


【補足情報:自動付与】


対象識別名:

本城 清隆


「……名前、出たぞ」

 Σ7-1が気づく。

「個体に定義が発生している」


(短い沈黙)


「例外処理を継続する」

「対象E-017は、人間として扱う」


【視認例外:E-017】

状態:継続

影響範囲:未確定


───


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚ブクマに置いてもらえたら励みになります。

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