新宿事変・顕現
疲れ切った声が、
誰に向けるでもなく、漏れた。
「……助けてよ」
言葉は、そこで終わるはずであった。
だが、続いてしまった。
「……Lucifer」
本人は、
自分が何を言ったのか、理解していない。
祈りではない。
願いですらない。
ただの疲労であった。
だが、
世界は、それを聞いた。
空気が、沈む。
重さが、定義を持つ。
どこからともなく、
優しい声が、重なった。
「……ありがとう」
怒りでも、命令でもない。
救済のような、
終わりの声。
地面の奥で、
何か巨大なものが、呼吸を始める。
まだ姿は見えない。
だが、新宿は確かに乗っている。
この街は、
名前を呼んだ。
だから、
神は降りる。
だが、まだ、完全には。
新宿の空気が、わずかに軽くなった。
それは救いではない。
「殴れる距離」が、
この世界に、初めて定義された。
◆
オルドは、
座標を持たない場所にいた。
そこは空でも、地面でもなく、
足元には、都市の輪郭が重なっていた。
新宿であり、
まだ名前を持たない別の街でもある。
「現世と箱庭の境界となりかけているこの街は、
元々神を必要としていない」
「それでも、呼んだ」
「そして、呼ばれたのは、
神だけじゃないな…」
◆
誰にも名前を呼ばれていない。
それでも、
“来てしまった”存在がある。
——カイは、
呼ばれた自覚がないまま、
地面に立っていた。
新宿は、眩しかった。
光が多すぎて、影の置き場がない。
ネオンは看板を照らしているのに、何も照らしていないようにも見える。
カイは歩いていた。
理由はない。
行き先もない。
ただ、ここに呼ばれたから、歩いている。
服装が浮いていることは、分かっていた。
マントに近い濃紺のロングコート、
インナーは無地の薄手のシャツ。
ブーツは戦闘用だが、ぱっと見は革靴寄り、
武器はコートの内側で見えない。
少しばかり、変わった格好。
だが、
ここでは浮く理由が、
誰にも重要ではない。
周囲の誰も、カイを二度見しなかった。
だが、
溶け込んだとも、
言い切れなかった。
コンビニに入る。
自動ドアの音が、やけに大きい。
機械が「来た」と言っている。
棚の前で、足が止まった。
弁当が、並びすぎている。
肉。
魚。
野菜。
同じ名前で、少しずつ違う中身。
選ばせるための数だと、すぐに分かる。
だが、理解しても、体が動かない。
「……箱庭には、これなかったな」
無意識に、声が漏れた。
箱庭では、食事は生きるためのものであった。
これは違う。
これは、迷わせるための食べ物だ。
レジから電子音が鳴る。
袋が擦れる音。
会話でも戦闘でもない、意味のない音。
やけに、うるさい。
カイは何も買わずに、店を出た。
少し歩くと、ゲームセンターがあった。
入口の光が、昼より明るい。
音が、壁を突き抜けてくる。
中には入らない。
入口から、クレーンゲームだけを見る。
透明な箱。
ぬいぐるみ。
掴むための腕。
腕は、弱い。
最初から、取れないように作られている。
「……取れないことを前提に作られてる」
呟いてから、
それが世界の構造そのものだと気づく。
努力させる。
希望を見せる。
でも、与えない。
それでも人は、金を入れる。
世界は、
最初から
“騙す前提”で成立している。
箱庭より、よほど残酷だ。
駅前に出る。
終電が近いらしい。
走る人がいる。
息を切らし、スマートフォンを見ながら、改札へ向かう。
誰も、空を見ていない。
見上げれば、
今夜は何かがいるはずなのに。
十二枚の翼が、
街の上に乗っているのに。
それでも、誰も気づかない。
気づかないまま、間に合うかどうかを気にしている。
現世のこの街は、
終わりよりも、遅刻を恐れている。
ガラス張りのビルに、
ネオンが反射している。
その奥で、一瞬だけ、
光の重なり方がズレた。
声が、重なる。
「……美しいな」
どこからでもない。
誰に向けたでもない。
カイは立ち止まらない。
振り返らない。
それが誰の声か、
分かってしまったからだ。
ネオンは、嘘をつかない。
だが、真実も言わない。
箱庭の空は、壊れていた。
だから、正直であった。
ここは違う。
すべてが正常で、
すべてが誤魔化されている。
ネオンは、箱庭よりずっと嘘くさかった。
それでも人は、
この光の下で、生きる。
呼んでしまったことも、
呼ばれたものも、
まだ知らないまま。
新宿は、今夜も平常だ。
——まだ、戦場ではない……
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