新宿事変(XXXX-XX-XX 21:17:04)
「自殺ではありませんよ」
KRONOS発動がなかなか決定しないΣ7の会議中、
ライナスが静かに言った。
「自殺は自分で終わらせる意思がある場合です。
これは……統計的必然です」
ライナスは悪夢のような箱庭が映るモニターから、
目を離さずに言った。
「感情で分類する段階は、もう過ぎています」
ライナスはΣ7の12番目の正式構成員であり、
心理・群衆担当、民意と集団心理の異質枠、
理性側、観測者側、そして……
どこかで人間をやめていた。
彼だけはKRONOSを
「倫理的に正しいか」ではなく
「美しいか」で見ている。
極彩色の蝶、その羽ばたきは、
誰にも観測されていないはずの場所から
始まっている。
会議室が静まり返った。
Σ7-4だけが
「だからこそ、我々が決める」と返した。
「KRONOSを選ぶ世界は、
もう選択を終えた世界です。
あとは、静かに片付けるだけだ」
Σ7-12ことライナスはきっぱりと言った。
最終プロトコルの発動が決まらぬまま、
時間だけが過ぎる。
箱庭の空全体に映った顔は、
形が整いだし、悪魔というにはあまりに端正で
まるで天使のような美しさを持っていた。
「ほぼ定着したな」
Σ7メンバーの誰かが確認する。
「とうとう、この箱庭世界が堕ちたか……」
「当たり前だが、待ってはくれない」
「次は現実世界に影響が出始めている」
◆
——新宿。
夜の新宿は、いつもより静かであった。
音が無いわけではない。
車は走り、人は歩き、信号は点いている。
ただ、
音が、遠い。
明治通り。
ネオンは正常に光っているのに、色が薄い。
赤は赤のまま、青は青のまま。
だが、それが「何の赤か」「何の青か」を、誰も意識していない。
通行人は歩いている。
ぶつかりもしない。
立ち止まりもしない。
ただ、急いでいない。
誰もが、ほんの少しだけ、遅れている。
交差点で、信号が変わらない。
赤のままだ。
一秒、二秒、十秒。
だが、誰も文句を言わない。
誰もスマートフォンを見ない。
「待たされている」という感覚が、存在しない。
青になった瞬間、
人々は同時に歩き出す。
その“同時”が、不自然であった。
誰も合図を見ていないのに、
誰も合図を疑っていない。
地下へ降りる階段。
駅構内の照明が、わずかに揺れる。
切れるほどではない。
揺れるだけだ。
広告パネルに映るモデルの笑顔が、
一瞬だけ、深く沈む。
笑っているのに、
そこに「喜び」がない。
次の瞬間、元に戻る。
誰も気づかない。
ホームに電車が入ってくる。
風圧が、来ない。
空気は動いているはずなのに、
体が「押されない」。
その代わり、
胸の奥に、重いものが置かれる。
置かれて、
そのまま、動かない。
若い男が、スマートフォンを落とす。
拾おうとして、
手が止まる。
画面に映る自分の顔が、
ほんの一瞬だけ、別の角度で存在している。
上下でも左右でもない。
「高さ」が違う。
次の瞬間、正常に戻る。
男は首を振り、
何もなかったように歩き出す。
理由を探す前に、
探す気が失せている。
駅の構内で、
誰かが転んだ。
倒れたまま、立ち上がらなかった。
理由が、思いつかなかったからだ。
ビルのガラスに、
街灯とは違う光点が一つ、映った。
星にしては低すぎる。
信号にしては遠すぎる。
誰も、それを数えようとしなかった。
夜景が反射している。
だが、映り込む空が、広すぎる。
新宿の空は、
こんなに奥行きを持っていない。
雲の位置が、
記憶と合わない。
それでも、人は立ち止まらない。
「空を見上げる理由」が、
この街から、一時的に消えている。
路地裏。
水たまりがある。
街灯が映っている。
建物が映っている。
通行人の足元が映っている。
その奥に、
もう一層、何かが映っている。
輪郭は無い。
色も無い。
ただ、
そこに「重さ」がある。
水面は揺れない。
犬が吠えない。
猫が逃げない。
ただ、同じ方向を見ている。
空でも、地面でもない。
中間。
“ここ”としか言いようのない場所。
誰かが、名前を呼びかけようとして、
やめる。
何を呼ぶつもりだったのか、
思い出せない。
思い出す必要も、
感じなくなっている。
時計を見る。
針は動いている。
秒針も、分針も、確かに進んでいる。
だが、
時間が減っていない。
夜が、消費されていない。
新宿は、平常だ。
事件は起きていない。
事故もない。
災害もない。
ただ、
世界が、踏み出していない。
何かが、降りる直前で、
足を止めている。
あるいは、
止められている。
それでも、
駅の構内で、
ガラスの向こうで、
水面の奥で、
「居るはずのない重さ」だけが、
確かに、そこにある。
美しくも淀んだ天使の降臨が、
目の前に迫っていた。
この街はまだ、
名前を呼んでいない。
だから、
神は降りていない。
——だが、
呼ばれなかった神が、
立ち去る理由も、まだ無かった。
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