表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

31/87

新宿事変(XXXX-XX-XX 21:17:04)

「自殺ではありませんよ」

 KRONOS発動がなかなか決定しないΣ7の会議中、

 ライナスが静かに言った。


「自殺は自分で終わらせる意思がある場合です。

 これは……統計的必然です」

 ライナスは悪夢のような箱庭が映るモニターから、

 目を離さずに言った。

「感情で分類する段階は、もう過ぎています」


 ライナスはΣ7の12番目の正式構成員であり、

 心理・群衆担当、民意と集団心理の異質枠、

 理性側、観測者側、そして……

 どこかで人間をやめていた。


 彼だけはKRONOSを

「倫理的に正しいか」ではなく

「美しいか」で見ている。


 極彩色の蝶、その羽ばたきは、

 誰にも観測されていないはずの場所から

 始まっている。



 会議室が静まり返った。

 Σ7-4だけが

「だからこそ、我々が決める」と返した。


「KRONOSを選ぶ世界は、

 もう選択を終えた世界です。

 あとは、静かに片付けるだけだ」

 Σ7-12ことライナスはきっぱりと言った。


 最終プロトコルの発動が決まらぬまま、

 時間だけが過ぎる。



 箱庭の空全体に映った顔は、

 形が整いだし、悪魔というにはあまりに端正で

 まるで天使のような美しさを持っていた。


「ほぼ定着したな」

 Σ7メンバーの誰かが確認する。

「とうとう、この箱庭世界が堕ちたか……」

「当たり前だが、待ってはくれない」

「次は現実世界に影響が出始めている」





 ——新宿。

 


 夜の新宿は、いつもより静かであった。


 音が無いわけではない。

 車は走り、人は歩き、信号は点いている。


 ただ、

 音が、遠い。


 明治通り。

 ネオンは正常に光っているのに、色が薄い。

 赤は赤のまま、青は青のまま。

 だが、それが「何の赤か」「何の青か」を、誰も意識していない。


 通行人は歩いている。

 ぶつかりもしない。

 立ち止まりもしない。


 ただ、急いでいない。


 誰もが、ほんの少しだけ、遅れている。



 交差点で、信号が変わらない。


 赤のままだ。

 一秒、二秒、十秒。


 だが、誰も文句を言わない。

 誰もスマートフォンを見ない。


「待たされている」という感覚が、存在しない。


 青になった瞬間、

 人々は同時に歩き出す。


 その“同時”が、不自然であった。


 誰も合図を見ていないのに、

 誰も合図を疑っていない。



 地下へ降りる階段。


 駅構内の照明が、わずかに揺れる。

 切れるほどではない。

 揺れるだけだ。


 広告パネルに映るモデルの笑顔が、

 一瞬だけ、深く沈む。


 笑っているのに、

 そこに「喜び」がない。


 次の瞬間、元に戻る。


 誰も気づかない。



 ホームに電車が入ってくる。


 風圧が、来ない。


 空気は動いているはずなのに、

 体が「押されない」。


 その代わり、

 胸の奥に、重いものが置かれる。


 置かれて、

 そのまま、動かない。



 若い男が、スマートフォンを落とす。


 拾おうとして、

 手が止まる。


 画面に映る自分の顔が、

 ほんの一瞬だけ、別の角度で存在している。


 上下でも左右でもない。

 「高さ」が違う。


 次の瞬間、正常に戻る。


 男は首を振り、

 何もなかったように歩き出す。


 理由を探す前に、

 探す気が失せている。


 駅の構内で、

 誰かが転んだ。


 倒れたまま、立ち上がらなかった。

 理由が、思いつかなかったからだ。



 ビルのガラスに、

 街灯とは違う光点が一つ、映った。


 星にしては低すぎる。

 信号にしては遠すぎる。


 誰も、それを数えようとしなかった。


 夜景が反射している。


 だが、映り込む空が、広すぎる。


 新宿の空は、

 こんなに奥行きを持っていない。


 雲の位置が、

 記憶と合わない。


 それでも、人は立ち止まらない。


 「空を見上げる理由」が、

 この街から、一時的に消えている。



 路地裏。


 水たまりがある。


 街灯が映っている。

 建物が映っている。

 通行人の足元が映っている。


 その奥に、

 もう一層、何かが映っている。


 輪郭は無い。

 色も無い。


 ただ、

 そこに「重さ」がある。


 水面は揺れない。


 犬が吠えない。


 猫が逃げない。


 ただ、同じ方向を見ている。


 空でも、地面でもない。

 中間。


 “ここ”としか言いようのない場所。


 誰かが、名前を呼びかけようとして、

 やめる。


 何を呼ぶつもりだったのか、

 思い出せない。


 思い出す必要も、

 感じなくなっている。


 時計を見る。


 針は動いている。

 秒針も、分針も、確かに進んでいる。


 だが、

 時間が減っていない。


 夜が、消費されていない。


 新宿は、平常だ。


 事件は起きていない。

 事故もない。

 災害もない。


 ただ、

 世界が、踏み出していない。


 何かが、降りる直前で、

 足を止めている。


 あるいは、

 止められている。


 それでも、


 駅の構内で、

 ガラスの向こうで、

 水面の奥で、


 「居るはずのない重さ」だけが、

 確かに、そこにある。



 美しくも淀んだ天使の降臨が、

 目の前に迫っていた。


 この街はまだ、

 名前を呼んでいない。


 だから、

 神は降りていない。


 ——だが、

 呼ばれなかった神が、

 立ち去る理由も、まだ無かった。


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚ブクマに置いてもらえたら励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ