消去
アスタロトと呼ばれた個体は、舌を出しながらリザードのように素早く駆け回る。
ちょいちょい謎の男ライナスに攻撃を仕掛けるが、見えないシールドによって弾かれる。
ライナスの容姿は防具もなく戦闘向きとは言えなかった。ジョブクラスは学者か治癒士辺りに見える。
「終わりだ、アスタロト、何者にもならざる異形に転生したお前を哀れに思うよ」
ライナスが指を鳴らす。
音はなかった。
だが次の瞬間、アスタロトの輪郭が意味を失った。
叫びも、断末魔もない。
ただ、存在していた理由だけが剥がれ落ちる。
魔神の影は、最初からそこに無かったかのように消えた。
地面に膝をつき、荒く息を吐くライナス。
黒衣に痩せた体。
だが、その目だけが異様に澄んでいた。
「……間に合った、な」
謎の男ライナスは顔を上げ、二人を見た。
イリスの顔色が、変わる。
ほんの一瞬。だがカイは見逃さなかった。
(……知ってる?)
男は、ゆっくりと立ち上がる。
両手を上げ、武器を持っていないことを示す。
「驚かせてすまない。敵じゃない」
声は落ち着いていて、よく通る。
恐怖を鎮める正しい声であった。
「オレの名はライナス。
……君たちと同じ、この世界の“異常”だ」
「異常、って……」
カイは木剣を握り直す。
「さっき現れた影を見ただろう?」
ライナスは、空を見上げる。
「あれはこの世界の外側から来る存在だ。
放っておけば、町どころか、周期そのものが壊れる」
その言葉に、イリスの肩がわずかに震えた。
「……あなた、どこまで知ってるの?」
ライナスは一瞬、言葉を選ぶように黙る。
そして、困ったように笑った。
「全部、とは言えない。
でも──」
男は、カイを見る。
「彼が鉄を握る理由くらいは、分かる」
「……何の話だ」
カイの胸が、嫌な音を立てた。
「鍛冶が落ち着くんだろう?
叩いていると、正しい場所に戻った気がする」
カイの呼吸が、一拍遅れる。
それは、誰にも話していない感覚であった。
ライナスは、静かに続ける。
「君は、ただの少年じゃない。
そして……」
視線が、イリスへ移る。
(覚醒人類──。)
「君は、もう気づいているね。
この世界が複数回目だってことに」
沈黙。
風が、戻らない。
「……もし、勘違いだったら?」
イリスは、短剣を構えたまま言った。
「この世界は、やり直しではない。
失敗の記録が積み上がるだけの実験だ」
そう答えるライナスを見て、カイには、何を言っているのか半分も分からなかった。
だが、この男が正しいことを言っているふりをしていることだけは、なぜか分かった。
「君たちは悪くない。
世界の方が、少し壊れているだけだ」
ライナスは微笑んだ。
躊躇も、恐怖もない。
「でも信じてほしい。
オレは、この世界を、壊させないために来た」
その声音には、確信と同時に、どこか期待が混じっていた。
遠くで、再び空が歪む。
先程とはまた別の影。
今度は、はっきりと“こちらを見ている”。
ライナスは、迷わず前に出た。
「下がれ!」
彼が踏み込んだ瞬間、
空間に“線”が走る。
剣ではない。
魔法でもない。
因果そのものを切る動き。
影が、悲鳴のようなノイズを発し、後退する。
「……すげえ……」
カイは、思わず呟いた。
「すごくなんかない。
これは、何度も失敗した末に覚えた動きだ」
ライナスは振り返らずに言う。
影は、完全には消えない。
だが、明確に押されている。
「今は、追い払うだけでいい」
ライナスは言った。
影が、裂け目の向こうへ退いていく。
空が、元に戻る。
静寂。
ライナスは、深く息を吐き、振り返った。
「……助かったよ。
君たちが、ここにいてくれて」
まるで、ずっと前から仲間だったみたいに。
「なあ、ライナスさん」
カイは、まだ木剣を下ろさない。
「なんだ?」
「……あんた、
本当に味方なんだよな?」
ライナスは、少しだけ目を伏せ、
それから、穏やかに笑った。
「ああ。
少なくとも──、今は」
イリスは、その言葉を聞いて、
ほんの一瞬だけ、目を閉じた。
(……まただ)
彼女の脳裏に、
同じ笑顔で世界が終わった記憶が、かすめる。
だが、今は言わない。
十五回目の世界は、まだ始まったばかりだ。
そして、
善意の顔をした刃は、すでに中に入っている。
ライナスは、血は拭った。
「もう、戦う理由はない」
「この世界は
静かで、優しくて、壊れやすい。
鉄を打つ音が朝を運び、
水は正しく低い方へ流れ、
人は、まだ他人を信じることができる。
だからこそ、オレはここに来た。
救うためだ。
繰り返される悲劇を、もう一度見るためじゃない」
少年は、まだ何も知らない。
少女は、覚えているが、まだ思い出していない。
「君たちがまだ知らないのなら、オレが導こう……
世界は、正しく終わるべきだ。今回こそは」
ライナスのその言葉は、祈りではなかった。
それは何かを確認するような…寂しげなものであった。
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