空に降りる輪郭
その日、箱庭の空全体に、
歪んだ悪魔の顔が映った。
雲ではなかった。
光学異常でもない。
空が、
一枚の皮膚のように引き伸ばされていた。
巨大な眼窩。
裂ける寸前の口。
だが、表情は完成していない。
影ではない。
翼でもない。
形になる前の、輪郭。
それは、
笑ってもいないし、怒ってもいない。
ただ、見下ろしている。
そこに「感情」を読み取ろうとした瞬間、
人間の思考が、遅れ始めた。
ルシフェルの世界侵食が、
限界近くまで来た証拠であった。
人々は、それを理解するより先に、立ち止まった。
夜景を反射する建物のガラス、
広告パネル、
雨上がりの夜の水たまり。
どこを見ても、その不気味な顔が映っている。
そして、悪魔の顔は厄災の雨を降らせた。
空の“口”の部分が、
ほんのわずかに、動いた。
声は出ない。
言葉もない。
だが確かに、
世界の重さが、増した。
その日、箱庭は壊れた。
雷が落ち、
炎が降り、
建物は壊れ、
多くの人が死滅した。
神話が、空から一歩、現実に近づいた。
それを見て人々は怯え、神に祈り、
救い主や英雄の登場を待った。
「……空、だったよね。
さっきまで、あれは“空”だったよね……?」
イリスが青ざめる。
「祈ってる人が多すぎるわ。
こんな時に祈られる神なんて……」
マリアが嘆く。
「ろくなものじゃない」
続けるアレフ。
「終わる時って、
もっと派手だと思ってたが、
こんな風に、
静かに来るとはな……」
カイはその先を悟る。
一方、悪魔側は、
勝ちを確信してはいるわけではないが、
本能的に高揚していた。
「……そうか、もう死ですら、
遅い段階に来たか、ルシフェル」
タナトスは空を見上げながら目を細めた。
「ああ……いい。
世界が、神を理解し始めた」
恍惚な表情でアグラトが呟く。
「ようやくだ。
焼く理由が、向こうから歩いてくる」
スルトが楽しげに言う。
「神話を削る?
いいわね。でも
削りすぎると、物語ごと折れるのよ?」
軽いが冷静に分析するマグナ。
そして……
悪魔の顔で覆い尽くされた空の向こうに
黒い星が瞬く。
◆
Σ7の会議室。
モニターでそれを観測し
映る空を見て
全員がざわついた。
「……オブジェクトJULIANは?」
Σ7-1が口火を切る。
「あれは確かに抑えていた」
誰かが答える。
「だが限界だ」
「まだ抑止は継続中」
「では“顔”が出たのは?」
「受肉直前の輪郭です。
次は現世“都市単位”で再現される可能性があります」
沈黙。
「議長……KRONOSの審議を」
Σ7-4が低く提案する。
「緊急プロトコル《KRONOS》か……」
Σ7-1が難色を示す。
「駄目だ、あれは「世界を救う装置」じゃない。
“物語を終わらせる装置”だ」
Σ7-7が反発する。
「人類は生き残るかもしれない、でも
今の人類」であるとは限らない」
Σ7-11が呟く。
「それは“世界の自殺”だ」
「人類を守る組織が、
人類を作り直していいのか」
「観測者が神になるつもりか?」
「それは勝利じゃない。
負けを選ぶ覚悟だ……」
意見が割れる。
「KRONOSは目的は神話・概念・因果・観測を含めた、
現世界の進行中の物語を強制終了する」
Σ7-8が詳細を説明する。
「効果としては世界を「一度壊す」
その上で「神話が入り込む前の状態」 に
再初期化する」
「人類の継続性は保証されない」
「記憶も、人格も、魂も
同一である保証はない……」
「成功確率は?」
Σ7-1が眉間に皺を寄せて問う。
「理論値では……3.1%です」
「……ある、ということか」
「“ある”というだけです」
「ほぼ祈りに近いな……」
Σ7-1は絶望的に呟いた。
◆
世界全体に薄く延びたLucifer_の意識。
「…… 空は近い、人間はまだ重い、だが、
もう拒めない、私は、降りる準備をしている。
世界のほうが、それを望んでいる……」
その日、
箱庭世界は終わらなかった。
だが、
終わらないという選択肢が、
最も恐ろしいものになった。
悪魔の顔が映った水辺を、
極彩色の蝶がひらひらと飛んでいた。
「ジュリアン……」
オルドは世界の縁で、端末の画面越しに呟いた。
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