観測不能(Unobservable)
◆『空席(Vacant Seat)』
転移は、光ではなかった。
音も、痛みも、断絶もない。
ただ、意味だけが剥がれ落ちていく。
(……なるほど)
ジュリアンは、自分がまだ「考えている」ことに、わずかな驚きを覚えた。
だがその驚きが、すでに人間の感情ではないことも、同時に理解していた。
上下はない。
内と外の区別もない。
時間は進んでいないが、停止もしていない。
神格側の視座。
彼が立っている、いや、占めているのは、
誰も座っていなかった“席”であった。
空席。
神話体系の中で、常に
「必要だが、誰も引き受けたがらなかった役割」
(防波堤か)
理解は、言語を経由しない。
世界の流量が、そのまま流れ込んでくる。
神性現世浸出。
ルシフェルという仕様が、現実に定着した結果、
世界は神話的過剰を起こしている。
神話は、本来、現実を補助するもの。
だが今は逆だ。
現実が、神話に耐えきれなくなっている。
(だから、空席が必要になった)
彼の存在は、祝福ではない。
救済でも、管理者でもない。
遮断。
減衰。
押し返し。
神話が現世を壊し尽くす前に、
その圧を一度、受け止める存在。
それが、彼に割り当てられた役割だ。
(……人間にとって、最悪の神だな)
思考が、わずかに皮肉を帯びる。
だが、その皮肉が誰のものかは、もう曖昧であった。
彼は見える。
箱庭アプリの向こうで、
ソロが必死にログを追っている。
Σ7の観測装置が、
この空席を「未定義オブジェクト」として検出し始めている。
そして。
病室。
少年。
カイ。
(……)
ここで初めて、
感情に近い何かが生じた。
理解者。
神話を、物語としてではなく、
「前提」として受け入れてしまった存在。
受肉条件の一つ。
だが同時に、
世界が選んだ緩衝材でもある。
(彼は、神になる器ではない)
(神話を壊さずに、受け入れてしまう人間だな)
それは、最も危険で、
最も優しい選択だった。
(……悪いな)
謝罪の言葉は、
もう音にならない。
ジュリアンという人格が、
ここで役割へと薄まっていく。
(……人間でいるのは、ここまでか)
そう思った瞬間、
「人間」という概念自体が、意味を失った。
彼は最後に、
人間だった頃の自分を思い出す。
箱庭を設計した理由。
管理し続けた理由。
神話を、
人間の手の届く場所に置きたかった。
だが今。
彼自身が、
人間の手の届かない存在になった。
(これでいい)
空席は、埋まった。
世界は一瞬だけ、
呼吸を取り戻す。
だが代償として、
人類にとって“味方ではない神”が誕生した。
◆『余波/観測(Aftermath / Observation)』
世界は、静かであった。
爆発はない。
崩壊も、閃光も、終末の演出も存在しない。
それでもΣ7の観測室では、
誰一人として「元に戻った」と口にする者はいなかった。
―――【神性出力:低下傾向】
―――【世界歪曲率:臨界値以下】
―――【存在階層:現世/神話/不明】
「……“安定”と表示されている」
Σ7-3が呟く。
だが、その声には安堵がなかった。
数値だけを見れば、事態は沈静化している。
神性流量は減衰し、都市構造の破綻率も下がっている。
にもかかわらず、
理由が、どこにも存在しない。
「ルシフェルの出力が下がったわけではない」
Σ7-4が淡々と述べる。
「むしろ、押し込み続けている」
「じゃあ、何が受け止めてる?」
Σ7-2が問い返す。
Σ7-4は、数秒だけ黙った。
「……誰かだ」
「いや、何かだな」
観測画面の一角。
数値でも、波形でもない空白。
そこには名前がない。
定義も、識別子も、危険度すら存在しない。
触れようとすると、
観測精度そのものが落ちる。
測定しようとした瞬間、
世界側の解像度が低下する。
Σ7-5が、声を潜める。
「観測してはいけないものだ」
否定は、出なかった。
⸻
一方、地上。
都市HK-015は、表面上は平常であった。
空は青く、
建物は立ち、
人々は仕事に戻っている。
だが、決定的な違和感があった。
祈りが、どこにも届かない。
宗教施設。
即席の祭壇。
ネットワーク越しの呟き。
どれもが、同じ感触を返す。
空白。
反響のない深さ。
「……薄い」
誰かが、呟いた。
かつて、神を前にした者が使った言葉。
神は消えていない。
否定されたわけでもない。
ただ、
間に何かが挟まった。
それは答えない。
裁かない。
救わない。
ただ、
神話の圧を減衰させる。
人間にとって、
最も扱いづらい存在。
⸻
病院の一室。
カイは、目を覚ましていた。
医師の声は聞こえる。
心拍も、血圧も、正常だ。
だが、名前がまだ定まらない。
現実が、薄い膜越しにある。
(……そうか)
理由は分からない。
だが、分かってしまった。
世界が一度、壊れかけたこと。
そして、誰かがそれを受け止めたこと。
胸の奥に、説明できない重さがある。
神話を信じているわけではない。
だが、否定も、もうできない。
それは物語ではなく、
前提になってしまった。
カイは、何かを呼びそうになる。
だが、その名前は、
喉の手前で、必ず霧散する。
呼ばせない。
誰かが、
そうしている。
⸻
HKO観測室。
Σ7-1が、最後に口を開いた。
「これは勝利じゃない」
誰も反論しない。
「敗北でもない」
一拍置いて、続ける。
「均衡だ」
その言葉に、
誰一人として安堵しなかった。
均衡とは、
最も不安定な状態だからだ。
後に観測局は、こう総括する。
・世界は存続している
・神話は現世に定着した
・一つの席が埋まった
その席に触れようとすると、
世界の方が先に壊れる。
それだけが、
確定していた。
それは、人類側に許された、最後の理解であった。
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