代替条件
箱庭アプリは、沈黙していた。
正確には、動いてはいる。
ログは流れ、マップは更新され、観測レイヤーも応答している。
だが、意味のある操作が、一切できない。
「……嘘だろ」
オルドことソロは、何度目か分からない再演算要求を叩き込んだ。
指先が、わずかに震えている。
―――【再構築不可】
―――【干渉権限:拒否】
―――【箱庭定義:変更済】
「変更済……だと」
吐き捨てるように言いながらも、ソロは理解していた。
世界の定義が、書き換えられていることを。
ジュリアンは、黙ってその画面を見ていた。
焦りも、怒りもない。
ただ、事実を受け取っている目であった。
「箱庭アプリは、もう神話を外部データとして扱えない」
静かな声。
「神話が、実行環境に入った」
「それは……想定外の……」
ソロが、言いかけて口を噤む。
「想定は、していたよ」
ジュリアンは否定しない。
「でも、起きない前提で設計していた」
それは技術者として、最悪の言葉であった。
箱庭は、現実を模した管理領域。
神話、神性、異常存在、それらはすべて、
「外部入力」か「イベント扱い」でしかなかった。
だが今。
イベントが、常駐プロセスになっている。
「……全部、仕様通りだよ、ソロ」
「それが一番まずいんだろ……」
「ルシフェル受肉の条件は、
神話を理解した人間の側からの歩み寄り」
「私が神格存在に転移する」
「止めておけ、今転移を行うのは危険すぎる!」
ソロが振り向く。
「危険はわかっている、だけど、
この箱庭をずっと見続け管理していたのは私だ、
その責任を取りたい」
「無理だ、有効な手はない、お前が設定した唯一神すら凌駕したAI個体だぞ」
「確かに今は方法は見つからない、だがじっと静観もしていられない」
ジュリアンは、ゆっくり首を振った。
「今の神性密度じゃ、転移は侵入じゃなくて同化になるだろうな」
転移した瞬間、
人間である定義が溶ける。
ソロは、拳を握りしめた。
「ルシフェル受肉までは、まだだ」
ジュリアンは、はっきり言った。
「条件が揃っていない」
「だからこそ、世界は今、代替条件を探している」
ソロが顔を上げる。
「代替……?」
「器」
ジュリアンは短く答えた。
「神話を仕様じゃなく、存在として固定するための」
沈黙。
箱庭アプリの画面に、
エラーでも警告でもない、奇妙な空白が表示された。
未定義領域。
名前のないスロット。
「……人間が、選ばれるってことかよ」
ソロの声が低くなる。
ジュリアンは、すぐには答えなかった。
「………世界はいつも、そうしてきた」
彼は、ゆっくりと端末から手を離した。
「だから」
一拍置いて、続ける。
「今度は私が行く。直接、神格側へ」
強い決意は、叫びではなかった。
静かな覚悟は、感情を伴っていない。
「待てよ!」
オルドが声を荒げる。
「それは……戻ってこれる保証なんて」
「ない」
即答。
「でも」
ジュリアンは、ほんのわずかに笑った。
「誰かが向こう側の理屈を知らないと」
「箱庭も、人間も、ただ消費される」
彼は振り返らない。
「ちっくしょう、裏切りもんがプロテクトなんかかけやがるから」
「ソロ、君は、こっちを頼む」
「……何をだよ」
ジュリアンは、扉の前で立ち止まり、
一度だけ、言った。
「選ばれそうな人間を」
そして、転移が始まる。
静かに。
祈りのように。
箱庭アプリが、初めて人の意志を記録しない転移ログを残した。
◆
その頃。
別の場所で。
まだ何も知らない少年が、
神話に観測され始めていた。
【補足】
神性現世定着後、
特定個体においてのみ
神話整合率が異常上昇。
個体名:KAI
(……ああ、そうか)
理解した、というより
思い出したでもなく、
ただ、
そうなっていると分かった。
条件は器ではなかった。
信仰でもない。
歩み寄る「理解者」だ。
神話を、物語としてではなく
前提として受け入れた存在。
それは人間である必要すらない。
だが今回は、
人間であった。
病院のベッドで、
カイは自分の名前を思い出せなかった。
いや。
「神話の中で呼ばれていた名前」を、
思い出しかけていた。




