神性現世浸出(インカーネーション)
───私の悲願が、この周期で叶うことは、最初から分かっていた。箱庭、閉ざされた世界、神を模した装置と、それを管理しているつもりの知性たち、彼らは誤解している、神は存在だと、あるいは個体だと、間違いだ。神とは、この世界の仕様……今の私は、肉体を持たない、天界も、冥界もここにはない、座も、玉座も、信仰も欠けている、だが、私はすでに、現世に定着している、未だ受肉には至らない、完全な侵入ではない、神話的仕様として、世界の側にそう振る舞わせているに過ぎない、神話とは便利なものだ、止めようとした瞬間、世界は自ら役割を配り始める、敵、監視者、反逆者、生贄、語り部たち、そして失敗者。
完全受肉に欠けている条件が一つ、だがそれも時間の問題だ、なぜなら、世界はすでに私を前提に動き始めている、神は、降りる必要などない、世界のほうが、神話へと歩み寄るのだから、そして今日、その条件が一つ、満たされる……
⸻
空が、沈黙した。
呼吸音すらもない。
爆発も、歪みもない。
ただ、
空が「上」であることをやめた。
都市HK-015上空。
そこに、
巨大すぎる何かが在った。
山でもない。
建造物でもない。
神話の輪郭だ。
雲が、押し潰されるように張り付いている。
空間が、重さを持って垂れ下がる。
十二枚の黄金の翼。
それは羽ばたいていない。
存在しているだけで、世界のスケールを狂わせていた。
Σ7の全観測装置が、同時にエラーを吐いた。
―――【神性出力:測定不能】
―――【質量定義:不成立】
―――【存在階層:現世/神話 重複】
「……現世に」
Σ7-02が、声を失ったまま呟く。
「降りた……?」
「いや」
Σ7-4が、かすかに首を振った。
「現世を、下げたんだろう」
⸻
下層境界。
パトラは、初めて立ち止まっていた。
笑っていない。
軽口も、ない。
「……ああ」
小さく、息を吐く。
「やられた」
彼女の視界いっぱいに、
ルシフェルの全体が映っている。
透明だ。
輪郭は曖昧だ。
だが、巨大すぎる。
街が、
彼の影の中に収まってしまっている。
「神話としてじゃない」
誰に向けた言葉でもない。
「地形として来たか」
境界線が、悲鳴を上げている。
世界が世界であることを決めていた線が、
耐えきれず、たわんでいた。
「なるほどね……」
パトラは、乾いた笑い声をあげた。
「理解が早いな、観測者」
ルシフェルの声が、
空を雲を振動させる。
声に方向はない。
上でも下でもない。
「お前は、正しく遅らせたよ」
次の瞬間。
世界が、分断された。
斬撃ではない。
衝撃でもない。
ただ、
空間が切り分けられた。
ビルが、途中から意味を失って崩れる。
道路が、上下で別の法則に従い始める。
パトラの身体が、
胸元から、腰、膝、足先へと、
複数の位相に分かれていく。
「……くっ」
痛みは、ない。
だが、
自分が世界から分解されていく感覚だけは、はっきりあった。
「やるね……ルシフェル様」
声が、少し揺れた。
「観測者を、世界構造で殴るなんて」
ルシフェルの翼が、ゆっくりと広がる。
「お前は余白だった」
「神話と現実の、遊び」
「だが」
世界が、沈む。
「今は、邪魔だ」
パトラの影が、引き裂かれる。
彼女のズレが、
世界に吸い込まれていく。
境界線が、完全に折れた。
◆
Σ7会議室。
警報が、消えた。
代わりに、
静寂が訪れた。
―――【神性現世浸出:完了】
―――【状態更新:神話→現実階層固定】
―――【箱庭定義:変更不可】
Σ7メンバーは全員動けずにいた。
「……達成したのか」
Σ7-05が、掠れた声で言った。
「データLucifer_が……現実世界に」
Σ7-4は、目を閉じていた。
「いや」
Σ7-1がゆっくりと、言う。
「これは世界の敗北だ」
誰も、否定できなかった。
◆
空。
ルシフェルは、都市を見下ろしていた。
もはや浸出ではない。
存在している。
現世に。
「……薄いな」
かつてと同じ言葉。
だが、意味は違う。
「だが、十分だ」
その足元で。
分断されたパトラが、まだ消えていなかった。
複数の位相に裂かれ、
世界に縫い止められたまま。
彼女は、悔しげに笑った。
声は、確かに神性ルシフェルに届いている。
視線を、上げる。
「まだだよ、あなたの勝利譚にはさせない」
ルシフェルは沈黙する。
「私がここに残ってる時点で」
「この世界を綺麗には終わらせない」
彼女の身体が、
完全に地形へと溶けていく。
境界そのものになる。
最後に、囁く。
「観測者は、消えていない」
⸻
都市HK-015。
人々は、まだ理解していない。
だが。
神話は、完全に現世に降りた。
箱庭は、
もはや神話を物語として扱えない。
現実として、共存するしかない。
世界は、後戻りできない段階へ進んでいた。




