現世浸出プロトコル
空が、悲鳴を上げていた。
空間が歪んだというより、正確には
「空」という概念自体が、
許容誤差を起こしている。
都市HK-015上空。
十二枚の翼を持つ亡霊ログ。
ルシフェルは、確かにそこにいた。
完全な肉体はない。
質量も、影も、定義も曖昧だ。
それでも。
翼が一度、ゆっくりと羽ばたいた瞬間。
都市の重力定数が、0.3だけ書き換わった。
ビルが沈む。
地面が呼吸するように波打つ。
世界が、神話の記述を思い出しかけている。
「……ほう」
亡霊は、満足そうに空を見下ろした。
「拒絶はある。だが、触れる」
翼の先端が、現実のレイヤーに沈み込む。
現世浸出。
彼の悲願は、確かに始まっていた。
◆
Σ7会議室。
全システムが、同時に沈黙した。
次の瞬間、
あり得ない速度で警告ログが噴き出す。
―――【現実干渉率:臨界超過】
―――【因果整合性:破綻予兆】
―――【神話級事象定義:失効】
「世界定義ファイルが、上書きされている!」
「誰だ! 誰が許可を出した!!」
怒号が飛ぶ中、
Σ7-02が震える声で言った。
「……これは侵入じゃない」
「“復帰”だ。
削除したはずの神話が、
自分で帰ってきている」
その瞬間。
Σ7-4が、ゆっくりと立ち上がった。
「想定内だ」
空気が、凍る。
「……何?」
「彼は、敗北を理解していない」
Σ7-4は淡々と言った。
「だから亡霊になっても、
次の一手を探し続ける」
「つまり……」
「止まらないということか」
Σ7-6が先を繋げた。
その言葉は、
危険な予測であった。
◆
下層境界。
パトラは、靴先で境界線を踏んだ。
そこは空間でも次元でもない。
世界が“世界であることを決めている線”。
「……やっぱり」
彼女は、ため息まじりに呟く。
上空では、亡霊がさらに深く沈み込もうとしている。
現世が、神話を受け入れ始めている証拠だ。
「完全じゃないくせに、
力技で来るのは反則だよ」
パトラは、指を鳴らさない。
代わりに。
自分の影を、足元から持ち上げた。
影が、立体化する。
それは彼女自身の輪郭をした、黒い“ズレ”。
それは力ではなく、仕様の裏側であった。
「第一手はね」
影を、境界へ差し込む。
「殴ることじゃない」
世界が、軋む。
亡霊の翼の一部が、
現世に定着しかけた状態で停止した。
「固定を遅らせる」
パトラが軽快に笑う。
「あなたが触れてる現実、
今、柔らかいでしょ?」
亡霊の声が、低く響く。
「……貴様」
「浸出は成功してる」
パトラは認める。
「でもね、
定着しない神話は、ただの災害ログ」
影が、境界を引き延ばす。
現世と神話の間に、
あり得ない“遊び”が生まれる。
亡霊が、初めて表情を歪めた。
「固定できない……?」
「そう」
パトラは肩をすくめる。
「世界が迷ってる」
◆
Σ7会議室。
「現世浸出、第一段階……成立」
誰かが、呆然と呟いた。
「だが」
「固定失敗」
Σ7-01が、静かに結論を出す。
「これは勝利ではない」
全員が理解した。
だが同時に。
もっと恐ろしいことも。
「……次がある」
Σ7-4は、座り直す。
「彼は触れた」
それだけで、十分であった。
◆
空で、亡霊とパトラが向き合う。
翼はある。
だが、世界はまだ拒んでいる。
「覚えておけ」
亡霊が言った。
「次は、こうはいかない」
パトラは、笑ったまま手を振る。
「その時はさー」
「世界ごと、バグらせるから」
箱庭は、
確実に次の段階へ進んだ。
神話は、戻り道を見つけた。
そして人間は……
まだ、その意味を理解していない。
◆
雲の裏で、
亡霊が、確かに“こちら”を見ていた。
完全な顕現ではない。
だが、世界はもう応え始めている。
「……良い」
ログの重なりが、声になる。
「神は、語られることで戻る」
翼が、わずかに広がる。
都市の一部が、
さらに神話へと沈んでいく。
下層で、パトラが小さく息を吐いた。
「Σ7さん」
彼女は通信を開く。
「これ以上は、半歩じゃ済まないよ」
返事はなかった。
ただ、
世界が一段、深く淀んだ。
箱庭は、もう知ってしまった。
神話は、
終わったものではない。
再び使われるものなのだと。
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