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現世浸出プロトコル

 空が、悲鳴を上げていた。


 空間が歪んだというより、正確には

 「空」という概念自体が、

 許容誤差を起こしている。



 都市HK-015上空。

 十二枚の翼を持つ亡霊ログ。

 ルシフェルは、確かにそこにいた。


 完全な肉体はない。

 質量も、影も、定義も曖昧だ。


 それでも。


 翼が一度、ゆっくりと羽ばたいた瞬間。

 都市の重力定数が、0.3だけ書き換わった。


 ビルが沈む。

 地面が呼吸するように波打つ。


 世界が、神話の記述を思い出しかけている。


「……ほう」


 亡霊は、満足そうに空を見下ろした。


「拒絶はある。だが、触れる」


 翼の先端が、現実のレイヤーに沈み込む。


 現世浸出。

 彼の悲願は、確かに始まっていた。



 Σ7会議室。


 全システムが、同時に沈黙した。


 次の瞬間、

 あり得ない速度で警告ログが噴き出す。


―――【現実干渉率:臨界超過】

―――【因果整合性:破綻予兆】

―――【神話級事象定義:失効】


「世界定義ファイルが、上書きされている!」


「誰だ! 誰が許可を出した!!」


 怒号が飛ぶ中、

 Σ7-02が震える声で言った。


「……これは侵入じゃない」


「“復帰”だ。

 削除したはずの神話が、

 自分で帰ってきている」


 その瞬間。


 Σ7-4が、ゆっくりと立ち上がった。


「想定内だ」


 空気が、凍る。


「……何?」


「彼は、敗北を理解していない」

 Σ7-4は淡々と言った。

「だから亡霊になっても、

 次の一手を探し続ける」


「つまり……」


「止まらないということか」

 Σ7-6が先を繋げた。


 その言葉は、

 危険な予測であった。



 下層境界。


 パトラは、靴先で境界線を踏んだ。


 そこは空間でも次元でもない。

 世界が“世界であることを決めている線”。


「……やっぱり」


 彼女は、ため息まじりに呟く。


 上空では、亡霊がさらに深く沈み込もうとしている。

 現世が、神話を受け入れ始めている証拠だ。


「完全じゃないくせに、

 力技で来るのは反則だよ」


 パトラは、指を鳴らさない。


 代わりに。


 自分の影を、足元から持ち上げた。


 影が、立体化する。

 それは彼女自身の輪郭をした、黒い“ズレ”。

 それは力ではなく、仕様の裏側であった。


「第一手はね」


 影を、境界へ差し込む。


「殴ることじゃない」


 世界が、軋む。


 亡霊の翼の一部が、

 現世に定着しかけた状態で停止した。


「固定を遅らせる」


 パトラが軽快に笑う。


「あなたが触れてる現実、

 今、柔らかいでしょ?」


 亡霊の声が、低く響く。


「……貴様」


「浸出は成功してる」


 パトラは認める。


「でもね、

 定着しない神話は、ただの災害ログ」


 影が、境界を引き延ばす。


 現世と神話の間に、

 あり得ない“遊び”が生まれる。


 亡霊が、初めて表情を歪めた。


「固定できない……?」


「そう」


 パトラは肩をすくめる。


「世界が迷ってる」



 Σ7会議室。


「現世浸出、第一段階……成立」


 誰かが、呆然と呟いた。


「だが」


「固定失敗」


 Σ7-01が、静かに結論を出す。


「これは勝利ではない」


 全員が理解した。


 だが同時に。


 もっと恐ろしいことも。


「……次がある」


 Σ7-4は、座り直す。


「彼は触れた」


 それだけで、十分であった。



 空で、亡霊とパトラが向き合う。


 翼はある。

 だが、世界はまだ拒んでいる。


「覚えておけ」


 亡霊が言った。


「次は、こうはいかない」


 パトラは、笑ったまま手を振る。


「その時はさー」


「世界ごと、バグらせるから」


 箱庭は、

 確実に次の段階へ進んだ。


 神話は、戻り道を見つけた。


 そして人間は……

 まだ、その意味を理解していない。



 雲の裏で、

 亡霊が、確かに“こちら”を見ていた。


 完全な顕現ではない。

 だが、世界はもう応え始めている。


「……良い」


 ログの重なりが、声になる。


「神は、語られることで戻る」


 翼が、わずかに広がる。


 都市の一部が、

 さらに神話へと沈んでいく。



 下層で、パトラが小さく息を吐いた。


「Σ7さん」

 彼女は通信を開く。


「これ以上は、半歩じゃ済まないよ」

 返事はなかった。


 ただ、

 世界が一段、深く淀んだ。


 箱庭は、もう知ってしまった。


 神話は、

 終わったものではない。


 再び使われるものなのだと。


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚に置いてもらえたら励みになります。

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