十二枚の翼を持つ亡霊
胸を突き抜けるような異常が走った。
警報ではない。
世界の整合性が、わずかに崩れた兆候であった。
空が一段、暗くなる。
雲が流れる速度が狂い、重力がわずかに傾く。
都市HK-015、外縁部。
人々はまだ、それを災害だと理解していなかった。
最初に気づいたのは、Σ7ではない。
人間ですらない。
箱庭そのものであった。
【異常ログ検出】
【データ階層:神性残滓】
【識別不能/署名一致率:0.72】
世界の下層、実装レイヤーに、
存在しないはずのログが浮上する。
「……来たか」
下層境界で、パトラが立ち止まった。
彼女は見上げる。
空に、光の裂け目が走っている。
「記録の残骸にしては、目立ちすぎ」
◆
病院。
カイは、突然胸を押さえた。
「……っ!」
視界が、二重に揺れる。
耳鳴り。
だが、音ではない。
懐かしさだ。
説明できないのに、確信だけがある。
(……来た)
イリスが顔を上げる。
「カイ? 今……」
言葉が、途中で止まった。
窓の外。
夜空に、巨大な光の影が浮かんでいた。
それは、完全な形を持っていなかった。
輪郭は崩れ、身体は半透明。
だが、
黄金の翼だけが、はっきりしている。
一枚、二枚、三枚……
数えるまでもない。
十二枚。
「……うそ」
イリスの声が震える。
その瞬間。
影が、視線を向けた。
都市全体が、軋んだ。
ビルの窓ガラスが一斉に割れ、
重力が反転する。
人々が宙に浮き、
次の瞬間、叩き落とされた。
神話級災害。
これは自然現象ではない。
「────」
声は、直接脳に響いた。
音ではない。
ログの上書きだ。
【識別名:LUCIFER】
【状態:不完全/残留神性ログ】
【権限:無効】
【警告:世界干渉中】
Σ7会議室。
全ディスプレイが、同時に赤く染まる。
「馬鹿な……!」
「これはデータだ! 人格ログのはずだろう!」
「いや違う」
Σ7-03が叫ぶ。
「これは記録じゃない……意識だ!」
「誰が解放した!?」
一瞬の沈黙。
Σ7-4が、低く言った。
「……解放ではない」
全員が、そちらを見る。
一拍置いて、Σ7-4は続けた。
「残っていたものが、動いただけだ」
その言葉が、
誰よりも危険であった。
◆
都市上空。
十二枚の翼を持った亡霊ログが、腕を上げる。
指先が、空間に触れた瞬間。
現実が、削れた。
建物が、存在の途中で止まる。
人が、人として完結しない。
因果が、途中で断ち切られる。
「……まずいね」
パトラが呟く。
「亡霊なのに、神性だけ本物」
彼女は何もない眼前に手を掲げた。
まるで、表示の邪魔なウィンドウを払うように。
世界が、彼女の指示を待っているかのごとく静止する。
そこに“触れてはいけない線”が見える。
次元が、薄く裂ける。
「仕方ない……
下から止める」
◆
そのとき。
病院の廊下で、
タナトスが立ち止まった。
初めて。
彼が、空を見た。
白衣の裾が、静かに揺れる。
「来たか」
一言、それだけ。
だが、周囲の温度が一気に下がる。
彼は、介入しない。
死が、世界を認識した瞬間であった。
空で、亡霊が笑う。
声は、世界自体を大きく震わせる。
「まだ……覚えている者がいるのか」
その視線が、都市の一点に向く。
カイ。
因果を無視するように、
彼の名前だけが、空中にログとして浮かび上がる。
「……来るな!」
イリスが叫ぶ。
だが、遅い。
十二枚の翼が、広がる。
次の一撃で、都市は終わる。
その瞬間、
空間が、真横に切断された。
音も、光もない。
ただ、亡霊の腕と翼の一部が、
存在しなかったかのように消滅した。
「……誰だ」
初めて、亡霊の声に怒りが混じる。
裂け目の向こうから、
少女が歩いてくる。
「はじめまして? ルシフェル様」
パトラは、楽しげに笑った。
「私はパトラ。
あなたが“まだ神だと思ってる側”の世界の、バグ担当」
亡霊が、低く唸る。
「……消えろ」
「無理」
パトラは肩をすくめる。
「だってあなた、もう完全じゃない」
彼女は指を立てる。
「今のあなたはねぇ、
物語に戻りたがってるだけの、データ災害」
その頃。
Σ7のログに、新たな警告が走る。
【警告】
【未知介入者:下層起源】
【観測不能】
Σ7-01が、静かに呟いた。
「……これは」
誰も続きを言えなかった。
半歩どころではない。
世界は、
既に次の段階へ踏み込んでいる。
空で、三者が向き合う。
亡霊の神。
下層の少女。
そして、
まだ何も知らない少年。
カイの胸の奥で、
確かに何かが目を覚ました。
(……あれを、俺は)
思い出してはいけない。
だが、もう遅い。
箱庭は、もう神話を物語としては扱えなくなっていた。
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