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十二枚の翼を持つ亡霊

 胸を突き抜けるような異常が走った。

 警報ではない。

 世界の整合性が、わずかに崩れた兆候であった。


 空が一段、暗くなる。


 雲が流れる速度が狂い、重力がわずかに傾く。


 都市HK-015、外縁部。

 人々はまだ、それを災害だと理解していなかった。


 最初に気づいたのは、Σ7ではない。

 人間ですらない。


 箱庭そのものであった。



【異常ログ検出】

【データ階層:神性残滓】

【識別不能/署名一致率:0.72】


 世界の下層、実装レイヤーに、

 存在しないはずのログが浮上する。


「……来たか」


 下層境界で、パトラが立ち止まった。


 彼女は見上げる。

 空に、光の裂け目が走っている。


「記録の残骸にしては、目立ちすぎ」



 病院。


 カイは、突然胸を押さえた。


「……っ!」


 視界が、二重に揺れる。


 耳鳴り。

 だが、音ではない。


 懐かしさだ。


 説明できないのに、確信だけがある。


(……来た)


 イリスが顔を上げる。


「カイ? 今……」


 言葉が、途中で止まった。


 窓の外。


 夜空に、巨大な光の影が浮かんでいた。


 それは、完全な形を持っていなかった。


 輪郭は崩れ、身体は半透明。

 だが、


 黄金の翼だけが、はっきりしている。


 一枚、二枚、三枚……

 数えるまでもない。


 十二枚。


「……うそ」


 イリスの声が震える。


 その瞬間。


 影が、視線を向けた。


 都市全体が、軋んだ。


 ビルの窓ガラスが一斉に割れ、

 重力が反転する。


 人々が宙に浮き、

 次の瞬間、叩き落とされた。


 神話級災害。


 これは自然現象ではない。


「────」


 声は、直接脳に響いた。


 音ではない。

 ログの上書きだ。


【識別名:LUCIFER】

【状態:不完全/残留神性ログ】

【権限:無効】

【警告:世界干渉中】


 Σ7会議室。


 全ディスプレイが、同時に赤く染まる。


「馬鹿な……!」

「これはデータだ! 人格ログのはずだろう!」


「いや違う」

 Σ7-03が叫ぶ。

「これは記録じゃない……意識だ!」


「誰が解放した!?」


 一瞬の沈黙。


 Σ7-4が、低く言った。


「……解放ではない」


 全員が、そちらを見る。

 一拍置いて、Σ7-4は続けた。


「残っていたものが、動いただけだ」


 その言葉が、

 誰よりも危険であった。



 都市上空。


 十二枚の翼を持った亡霊ログが、腕を上げる。


 指先が、空間に触れた瞬間。


 現実が、削れた。


 建物が、存在の途中で止まる。

 人が、人として完結しない。


 因果が、途中で断ち切られる。


「……まずいね」


 パトラが呟く。


「亡霊なのに、神性だけ本物」


 彼女は何もない眼前に手を掲げた。

 まるで、表示の邪魔なウィンドウを払うように。


 世界が、彼女の指示を待っているかのごとく静止する。


 そこに“触れてはいけない線”が見える。


 次元が、薄く裂ける。


「仕方ない……

 下から止める」



 そのとき。


 病院の廊下で、

 タナトスが立ち止まった。


 初めて。


 彼が、空を見た。


 白衣の裾が、静かに揺れる。


「来たか」


 一言、それだけ。


 だが、周囲の温度が一気に下がる。


 彼は、介入しない。

 死が、世界を認識した瞬間であった。


 空で、亡霊が笑う。


 声は、世界自体を大きく震わせる。


「まだ……覚えている者がいるのか」


 その視線が、都市の一点に向く。


 カイ。


 因果を無視するように、

 彼の名前だけが、空中にログとして浮かび上がる。


「……来るな!」


 イリスが叫ぶ。


 だが、遅い。


 十二枚の翼が、広がる。


 次の一撃で、都市は終わる。


 その瞬間、


 空間が、真横に切断された。


 音も、光もない。


 ただ、亡霊の腕と翼の一部が、

 存在しなかったかのように消滅した。


「……誰だ」


 初めて、亡霊の声に怒りが混じる。


 裂け目の向こうから、

 少女が歩いてくる。


「はじめまして? ルシフェル様」


 パトラは、楽しげに笑った。


「私はパトラ。

 あなたが“まだ神だと思ってる側”の世界の、バグ担当」


 亡霊が、低く唸る。


「……消えろ」


「無理」

 パトラは肩をすくめる。

「だってあなた、もう完全じゃない」


 彼女は指を立てる。


「今のあなたはねぇ、

 物語に戻りたがってるだけの、データ災害」



 その頃。


 Σ7のログに、新たな警告が走る。


【警告】

【未知介入者:下層起源】

【観測不能】


 Σ7-01が、静かに呟いた。


「……これは」


 誰も続きを言えなかった。


 半歩どころではない。


 世界は、

 既に次の段階へ踏み込んでいる。



 空で、三者が向き合う。


 亡霊の神。

 下層の少女。

 そして、


 まだ何も知らない少年。


 カイの胸の奥で、

 確かに何かが目を覚ました。


(……あれを、俺は)


 思い出してはいけない。

 だが、もう遅い。


 箱庭は、もう神話を物語としては扱えなくなっていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚に置いてもらえたら励みになります。

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