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白衣の向こう側

 病院の廊下は、やけに静まり返っていた。


 夜明け前。

 消灯された照明の合間を縫うように、非常灯だけが床を照らしている。


 カイは歩きながら何度も息を整えていた。

 理由は分からない。

 だが、胸の奥がざわついて仕方がなかった。


 廊下を出て外へ行こうとしたカイは、自分の身体が少し震えていることに気づいた。


 ──いる。


 はっきりそう思った。


 まだ姿は見えていない。

 なのに、“何かがそこにいる”という感覚だけが、先に来る。

 そう理解した瞬間、呼吸が浅くなった。


 空気が重い。

 肺が、うまく膨らまない。


 曲がり角を抜けた、その先。


 白衣の男が立っていた。


 タナトス医師。


 廊下の中央。

 そこに立っているだけであった。

 それなのに、廊下が彼を避けているように見えた。


「……」


 何もしていない。

 こちらのほうをただ見ている。


 カイの胃が、ひっくり返った。


「ッ……!」


 足が止まる。

 喉の奥が引き攣り、視界が一瞬暗転する。


(何だよこれ……は)


 だが、体が言うことをきかない。


 怖い。


 理由はない。

 危害を加えられたわけでもない。

 だが、恐怖という言葉では足りなかった。


 本能が叫んでいた。


 ──近づくな。これは、普通じゃない。


 カイは顔色を失っていた。

 唇がわずかに震えている。


 視線を逸らせない。

 まるで、目を離した瞬間に何かを奪われるとでも言うように。


 その後ろで、マリアが静かに立ち止まった。


 彼女は一瞬、タナトスを見て、

 そして何も言わず、カイの前に半歩出る。


 守る位置だ。

 それは、庇う動きだった。

 同時に、距離を保つための半歩でもあった。


 アレフは、ただ目を伏せていた。

 表情は穏やかなまま。

 だが、その手はわずかに握られている。


「……先生」


 沈黙を破ったのは、看護師のアグラトだった。


 彼女はいつも通りの声で、

 だが、ほんの僅かに距離を保ってタナトスに呼びかけた。


「巡回ですか?」


 タナトスは、ゆっくりと顔を上げた。


 視線が、動く。


 カイのことを、

 一瞬だけ見た。


 それだけであった。


 たったそれだけで。


「………!!」


 カイは堪えきれず、膝をついた。


 胃の中のものが込み上げる。

 床に手をつき、激しく咳き込む。


 そのまま嘔吐した。


 マリアが背中をさすりながら、必死に声をかける。


「カイ、見ないで。見なくていい!」


 タナトスは何も言わない。


 視線を外し、

 ただ、アグラトに向けて小さく頷いた。


 それだけで、

 圧が、わずかに緩んだ。


 息が、できる。


 まるで、深海から急浮上したような感覚。


 そして、タナトスは他の病室へと歩き出す。


 足音は、ほとんど聞こえない。

 白衣の裾が揺れ、影だけが床を滑る。


 すれ違いざま。


 マリアと、ほんの一瞬、視線が交わった。


 マリアは微笑まなかった。

 静かに目を伏せる。


 アレフは、何も言わない。

 だが、タナトスが通り過ぎたあと、深く息を吐いた。


 やがて、白衣の背中が角を曲がり、見えなくなる。


 廊下に、音が戻る。


 空調の低い唸り。

 遠くの機械音。


 生きている世界の気配。


「……今の……なんだったんだ……?」


 カイの声は、かすれていた。


 アレフもマリアも答えられなかった。

 喉が、まだ言葉を拒んでいる。


 アグラトが、ゆっくりと振り返る。


「すみません」

 彼女は、いつも通りの澄んだ表情で言った。

「驚かせましたね」


「……あの人、医者なんだよね?」


 カイの問いに、

 アグラトは一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置いた。


「……はい」

「それだけ?」


「ええ」


 きっぱりとした声音であった。


 マリアが、カイの前にしゃがみ込む。


「大丈夫?」

「……うん」


 嘘であった。

 だが、そう言うしかなかった。


 アレフが、静かに口を開く。


「カイ」


 その声は、温かい。


「今感じたものは、恐怖ではない」


 カイは顔を上げる。


「……じゃあ、何……」


「距離だ」


 アレフは、穏やかに、だが真剣な表情で続けた。


「人が越えてはいけない場所に立っている存在と、

 こちら側にいる者との、距離」


 カイは、何も言えなかった。


 だが、何となく分かった。


 あの医師は、暴走しているわけではない。

 歩く死そのものでもない。


 もっと厄介だ。


 自覚したまま、そこに立っている。


 そして。


 カイの中の何かが、確かに告げていた。


 あれは、敵ではない。

 だが、近づく理由を間違えれば…………死ぬ。


 その夜。


 箱庭は、何事もなかったように静かであった。


 ベッドでスヤスヤと寝息を立てているイリスを、

 カイはただ見つめていた。


 守られている命が、すぐ隣にある。

 それでも、


 世界のどこかで、

 確実に「死」が歩いている。


 それだけが、はっきりしていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

続きが気になった方は、

そっと本棚に置いてもらえたら励みになります。

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