観測誤差
その夜、箱庭の下層は静かであった。
光も、音も、現実の都市からは一段ずれた場所。
物理法則が曖昧になり、ログが意味を失い始める領域。
そこを、パトラは一人で歩いていた。
「……やっぱり、上は騒がしい」
彼女は振り返らない。
上──Σ7、HKO、観測者たちの視線が交錯する場所には、最初から行く気がなかった。
(見られることに慣れすぎると、世界を安全だと思い込む)
足元の空間が、わずかに歪む。
ここは箱庭の基底構造に近い。
文明でも、物語でもなく、ただの実装層。
「だから私は、下から行く」
ログが、彼女の足跡を記録しない。
それが、パトラという存在であった。
◆
同時刻。
HKO統合管理室、Σ7評議会・臨時セッション。
会議室の空気は、いつもより重かった。
ディスプレイには、HK-015第十五周期のリアルタイム観測ログ。
だが、
いくつかの数値が、静かに欠落している。
「……おかしいな」
最初に気づいたのは、Σ7-06だった。
「因果干渉率のログが、三分間、空白になっている」
「空白?」
Σ7-03が即座に反応する。
「観測エラーではない。記録そのものが……無かったことにされている」
室内が、わずかにざわつく。
ログ欠落。
それは単なる不具合ではない。
誰かが、触った。
「確認する」
Σ7-01、議長が低く言った。
「改竄検知は?」
一瞬の沈黙。
Σ7-11が、慎重に答える。
「……反応なし。正規権限による処理です」
その言葉が、決定的であった。
正規権限。
つまり──
「Σ7の中に、やった者がいる」
誰も否定しなかった。
◆
パトラは、立ち止まった。
視界の端で、異形が蠢く。
箱庭の防御機構が生んだものでも、文明由来の怪異でもない。
エラーの集合体。
「めんどくさいなぁ」
異形は、形を持たない。
触れれば、存在そのものを削る。
普通なら、逃げるか、上に報告する案件だ。
だがパトラは、ため息をついただけであった。
「よっと」
彼女は、指先で空間をなぞる。
切ったのは、敵ではない。
“接続”だ。
次の瞬間、異形はバラバラに崩れ、
ここにいたという事実ごと消えた。
「戦う必要、ないでしょ」
彼女にとって、異形は敵ですらない。
ただのノイズ。
「……それより」
パトラは、薄く笑う。
Σ7がそろそろ気づいた?」
◆
「議長」
Σ7-02が、静かに言った。
「このままでは、内部不信が拡大する。誰がやったか、特定すべきだ」
「特定して、どうする?」
Σ7-01は、すぐに答えなかった。
「処罰か? 権限剥奪か?
それとも……黙認か」
沈黙。
やがて、Σ7-05が口を開く。
「今回の改竄は、文明保護のためだった可能性があります」
「倫理的には?」
「……グレーです」
Σ7-07が、小さく笑った。
「つまり、半歩だけ越えた」
その言葉が、会議室に落ちる。
半歩。
全面介入ではない。
だが、完全な非干渉でもない。
「問題は」
Σ7-13が言う。
「一度越えた者は、次は一歩、越える」
誰も否定できなかった。
◆
パトラは、境界のさらに奥へ進む。
そこでは、箱庭そのものが、まだ目覚めきっていない。
「唯一神が不在、王も沈黙して、Σ7は躊躇ってる」
彼女は、独り言のように続ける。
「……そりゃあ、世界は勝手に動くよね」
ふと、彼女は立ち止まる。
遠くで、誰かがログを弄った痕跡。
「なるほど」
パトラは、余裕たっぷりに笑った。
「上が半歩越えたなら、下は……もう三歩くらい、行っていいね」
彼女は振り返らない。
上に戻る道も、報告する気もない。
「だってこれは、観測外の話」
その背中は、次元の隙間に溶けていく。
◆
Σ7会議室。
議長が、最後に告げる。
「今回の件は、記録上は自然収束とする」
異論は出なかった。
だが、全員が理解している。
世界は、もう二度もとの箱庭には戻らない。
そして。
その外側で、
下から、確実に近づく者がいることを。
お読みいただき、ありがとうございました。
続きが気になった方は、
そっと本棚に置いてもらえたら励みになります。




