死亡状態『未確定』
パトラは、箱庭の裏側を歩いていた。
舗装された道でも、地図に載る座標でもない場所。
ログとログの隙間、意味づけされなかった余白を、彼女は辿っている。
背は高くはないが、姿勢が異様にまっすぐだ。
黒に近い濃紺の外套は、現実の布というより「役割」を纏っているように見える。
肩まで届く髪は光を受けて、藍色から鮮やかなコバルトブルーへと揺らめき、そのたびに色を変える。
「……やっぱり、変ね」
薄紫の瞳は、感情を映さない光をたたえていた。
指先で空間をなぞる。
そこだけ、感触が遅れて返ってきた。
時間が歪んでいるのではない。
因果の処理順が、入れ替わっている。
Σ7の仕業ではない。
彼らは“管理”はできても、“戻す”ことはできない。
喉の奥で、かすかに息が詰まる。
「暁の王が……起きた、だけじゃ足りない」
パトラは立ち止まった。
足元に、消されたはずのログ断片が浮かび上がる。
死の時刻。
存在が終了したはずのID。
それらすべてが、未確定のまま凍結されている。
指先が、わずかに震えた。
「……まずいわね」
もし、これが完全に定着したら。
神が戻る前に、世界のほうが壊れる。
冗談めかした調子とは裏腹に、背中を冷たいものが這い上がる。
これは想定より、早い。
その瞬間。
「そこに気づくとは、さすがだ」
背後から、穏やかな声。
パトラは驚かない。
だが、肩越しに一度だけ、無意識に距離を測る。
「……出てくると思ってた」
振り返ると、白衣姿の男が立っていた。
何もない空間から、最初からそこにいたかのように。
足音はない。
ただ、通過した権限の余韻だけが残る。
「観測していただけだよ」
男──ライナスは、軽く肩をすくめた。
「君が、どこまで踏み込むのかを」
パトラは彼を正面から見据える。
その視線は鋭いが、どこか焦点が定まらない。
まるで、彼ではなく、彼の背後を見ているかのようであった。
「君は、例外だ」
沈黙。
風のない場所で、外套の裾だけが揺れた。
「箱庭の住人は、役割でできている」
ライナスは言葉を選ぶ。
「管理者も、観測者も」
一瞬、口を閉ざす。
「……君は、その外縁にいる」
パトラはふっと笑った。
だが、それはいつもの余裕ある微笑ではない。
「便利な言い方ね」
彼女は視線を逸らし、宙に浮かぶ何かを見る。
ライナスの背後に、彼自身が見ない“表示”。
測定不能。
未定義。
そして、増えつつある。
パトラは一歩踏み出しかけ、止まった。
「……まだ、ここまで来るとは思ってなかった」
声が、わずかに低くなる。
焦りを、隠しきれなかった。
「このままだと……」
言葉を切る。
暁の王でも、死でもない。
もっと古く、もっと静かなもの。
「……いや。断定は早いか」
ライナスは何も答えない。
ただ、彼女を観測している。
「ねえ」
パトラは、いつもの調子を取り戻そうとして言う。
「あんた、消せるでしょう?」
主語はない。
ライナスは否定しなかった。
沈黙が伸びる。
「……やらないよ」
彼はようやく口を開く。
「今は」
それ以上は、語られない。
パトラは息を吐く。
それは安堵ではなく、決断の呼吸だった。
「なら、私は予定通り」
影が、足元で沈む。
自然な現象には見えない。
「壊さない」
背を向けて言う。
「下から、組み替えるだけ」
(世界を救う気なんて、ない)
(ただ、人が生きられる余地を、残したいだけ)
「観測は続ける」
ライナスの声。
「好きにして」
次の瞬間、彼女の姿は消えていた。
ライナスは、ひとり残る。
管理画面を開きかけ、閉じた。
表示されていた警告。
【DEATH FUNCTION: UNSTABLE】
彼は、目を伏せる。
⸻
ライナス/内部記録(未送信)
本当の問題は、彼女ではない。
彼女は、見えているだけだ。
だが、
見えないまま、動き始めたものがいる。
それを、まだ誰にも言えない。
◆
その頃。
都市の端、老朽化した集合住宅で、
独居老人が静かに息を引き取った。
──はずであった。
心拍は止まり、
脳波も消え、
死亡確認のログも発行された。
それでも。
数分後、老人は目を開いた。
呼吸は戻らない。
声も出ない。
ただ、涙だけが、
止まらず流れ続けていた。
【死亡状態:未確定】
世界が、
死を、処理できなくなっていた。
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