残花(レムナント・リリィ)
夜明け前、病室は静まり返っていた。
規則的な機械音だけが、イリスの生を繋ぎ留めている。
呼吸は浅く、体温は安定しない。
「原因不明、ですか」
カイの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
老練の医師は首を横に振る。
「外傷はありません。毒素反応もない。魔力の枯渇でもない」
一拍置き、
「……まるで、存在自体が削れているような症状です」
その言葉に、カイの胸がぎゅっと縮んだ。
削れている。
減っていく。
失われていく。
──またか。
イリスは眠ったまま、眉をひそめている。
何かを耐えているようにも見えた。
病室の隅で、マリアが静かに祈るように手を組んでいた。
アレフは壁に背を預け、腕を組んだまま、目を閉じている。
「……治す方法は」
カイが聞いた。
医師は、躊躇ってから答えた。
「理論上なら、ひとつだけ」
「それは?」
「世界に残った奇跡を補填するのだ」
その言葉に、マリアが顔を上げる。
「残響の百合ね」
カイが振り向いた。
「知ってるんですか?」
マリアは少し困ったように笑った。
「ええ。正式名称は《記憶残存花》」
「世界が一度、終わりかけた場所にだけ咲く花よ」
「……まだ、あったか」
アレフが目を開けた。
「あるわ」
マリアは即答した。
「箱庭の外縁、古い裂け目の森に」
カイは、何も考えずに言った。
「行きます」
こちらも即答であった。
マリアは一瞬だけ、驚いた顔をして、
それから、ゆっくり頷いた。
「ええ。行きましょう」
◆
森は、静かすぎる場所であった。
風は吹いているのに、葉擦れの音がしない。
足音だけが、やけに響く。
裂け目の森。
世界が過去に、何度も縫い直された痕。
「怖くないか」
アレフが、歩きながら言った。
「……正直、怖いです」
カイは正直に答えた。
「でも」
言葉を探す。
「イリスが、いない世界の方が……」
そこで声が詰まった。
マリアは、何も言わず、
そっとカイの背中に手を添えた。
それだけで、
カイの目から、ぽろっと涙が落ちた。
「……すみません」
「いいのよ」
マリアの声は、優しかった。
「泣けるうちは、心が生きてる証拠だから」
カイは、歩きながら泣いた。
声を殺し、顔を伏せて。
なぜこんなに泣くのか、自分でも分からない。
アレフの背中を見るだけで、胸が締めつけられる。
マリアが隣にいるだけで、涙が出る。
──懐かしい。
──会いたかった。
理由のない感情が、溢れて止まらなかった。
森の奥、裂け目の中心。
そこだけ、光が差していた。
花に近づくにつれ、空気が重くなる。
記憶に踏み込むような感覚。
白い花。
一本だけ。
百合に似ているが、花弁の一部が、透けている。
まるで、過去の記憶そのもののように。
「……あれが」
カイが息を呑む。
「ええ」
マリアは静かに言った。
「残響之百合」
アレフが一歩前に出る。
「触るのは、俺がやる」
花に手を伸ばした、その瞬間。
アレフの動きが止まった。
「……っ」
彼の瞳が、揺れる。
「どうしたんですか!」
カイが駆け寄る。
「……思い出しただけだ」
アレフは、苦しそうに笑った。
「何を」
「お前と共に過ごした日々のことを」
カイの呼吸が、止まった。
「……え?」
「年齢より幼くて」
「よく泣く奴で」
「でも、よく笑った」
アレフの声は、震えていた。
「……また、こうして共に歩く日が来るとはな」
その言葉を聞いた瞬間。
カイは、崩れるように泣いた。
声を上げて、子どものように。
「……俺……」
「何も、思い出せないのに……」
「でも……」
アレフの胸に、縋りついた。
「……会いたかった……」
アレフは、何も言わず、
ただ、強くカイを抱きしめた。
マリアは、少し離れた場所で、その光景を見ていた。
目元を、そっと押さえながら。
「……間に合うわね」
小さく呟く。
アレフは、花を摘み取った。
白い光が、指先から零れる。
「帰ろう」
「イリスが、待ってる」
⸻
病室。
残花は、静かに溶けるように消えた。
光が、イリスの胸に吸い込まれていく。
一拍。
二拍。
そして。
「……カイ」
かすれた声。
カイは、顔を上げた。
「……イリス?」
次の瞬間、
彼女は目を開けた。
カイは、堪えきれなかった。
「……よかった……本当に……」
ベッドにしがみついて、人目もはばからず涙を零した。
「……泣き虫」
イリスは、弱々しく笑った。
「うるさい……」
カイは涙を拭いた。
「生きてくれて、よかった……」
マリアは、安堵の息を吐き、
アレフは、窓の外を見たまま、静かに微笑んだ。
世界は、まだ壊れていない。
確かに、誰かを救った。
残花は散った。
記憶は全ては戻らない。
それでも。
確かに、繋がっている。
この涙が、その証であった。
まだ、世界は彼を手放していなかった。
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