電脳東京
第三次世界大戦後、東京は終末を迎える。言わば電脳世界、日本に住む人々は皆政府による洗脳に侵されている。それは彼を除いてだが。
彼は毎朝恵比寿のオフィスに通うだけの普通の人生を辿っている、いや日本がこうなっている以上は普通も何も無いのだろうが。人々は完璧に事をこなす、洗脳により皆機械のように働かされているのだ。休むことさえ忘れて、
一体日本政府が何を企んでいるのかは誰にも分からない、この世界がこのままどうなるのかも、何もかも。だが、この電脳東京を生きている彼にも唯一の家族がいた。家で飼っている猫だ、洗脳を施しているのは人間、動物は今も自由気ままに生きている。後遺症を患う彼にとってはとても大切な宝物なのだ。洗脳された仕事場に向かう訳もなく彼は1人夜の東京を彷徨う。洗脳されていないことを周りの人間に悟られてはいけない、悟られた暁にはもうその時だろう。洗脳された東京も夜になれば皆元の人に戻ったように賑やかになる、奴らはただの機械人間だというのに。たまたま立ち寄った居酒屋に入店する、彼を歓迎する声が聞こえる、カウンター席に静かに座り酒の肴を口へと運ぶ。1つ大きなため息をついて脳内に思考を張り巡らせる。彼は考える、このまま私の運命はどうなるのか、この世界は救われるのか、数多の思考を繰り返した出た答えは、だからなんだ。という冷たく呆気ないものである。電脳東京、彼はこの世界を拒絶している訳では無い。寧ろ生活が楽になりメリットばかりを感じている。だが彼には深刻な悩みが存在した、つまらない。この世界が圧倒的につまらないことである。自分以外の人間がどんどんおかしくなっていくのを目の当たりにした彼はその度に深い絶望を味わっていたが今となっちゃ変哲もないことである。そもそも何故、どのようにして人々が洗脳されたのかを彼は知らない。ある日を境に途端におかしくなっていった、それに伴い私の脳みそも寄生虫にえぐり取られるように記憶がなるなるほどの激しい痛み、幻覚さえも見えてくるようになったのだ。そんなことを考えている内に肴の乗った皿は空いていた。
無意識の内に小一時間程経っていたらしい。彼はそのまま料金を払い家族の元へ帰っていった。猫は玄関に居座っており彼と目が合うと目を潰して大きな声で鳴いた。その声で閉ざされていた彼の涙腺は一気に開放され、ダムのように流れる涙が頬を伝う。ただ無心に猫に抱きついた彼はそのまま秒針が何周もしてもその場を離れることはなく気が付けばそのまま朝を迎えていた。猫は彼の包み込んだ手からはいなくなっている。彼はゆっくりと立ち上がりまだ目覚めていない脳みそを無理やり叩き起こし猫のいる部屋へと足を動かす。猫はお気に入りのカーペットの上で溶けたように寝転んでいる。少しの癒しを感じお腹に手を乗せて撫でた。だがその手はピタリと止まった、猫が冷たく感じる、比喩ではなく物理的に。まるで猫ではない何かみたいだ。彼は不安と恐怖に煽られながらも現実を必死に否定した。
死んでいる、そう思ったのは飼い猫に生気がまるで感じられなかったからだ。しかしそう易々と現実を受け入れられる程の器を彼は生憎持ち合わせていない。涙は出なかった、代わりに死体を哀れむ気持ちとこの世界に対する憎しみが彼を襲った。猫の平均寿命など精々10数年程度、恐らく衰弱だろう。大往生と言う綺麗な言葉で片付けなければ彼の精神は限りなく削り取られていた。立ち尽くす彼に追い討ちをかけるかの様に自宅のインターホンが鳴る。
いつもよりも重たく響めいた音が響き渡る。飼い猫が死んだ悲しみを抱きつつも無理やり作り笑顔を浮かべ扉をゆっくりと開く。せっかく作った笑顔は瞬く間にして消えた。それは扉を開けた先に絶望を表現するかのような光景が広がっていたからだ。そこには洗脳に侵された人々が彼の前に現れていた。およそ10人程いるだろう。皆同じ顔を浮かべ冷酷な目で彼を眺めている。バレたのだ。彼が未だ洗脳に侵されていないことに、恐怖に戦く彼は足がすくみピタリと固まる。
「着いてきなさい」
「いやだ。」
ずっと喉の奥がつっかえてた彼の精一杯を初めて声に出す。
「今すぐチリョウするんだ」
「チリョウじゃない。洗脳されるんだろ、皆。知っている。この世界の人間はおかしい、戦争を経て一体何を得たと言うんだ」
つっかえていた喉は次第に声を出すようになり、彼のこれまでの思いが滝の流れのように溢れ出る。しかし、彼の思いも虚しく洗脳に侵された機械人間には通用するはずもない。
「私たちは戦争を糧にして世界を新しくするために励んでいる」
「それがこの有り様なのか」
機械人間は一斉に彼をギロリと睨んだ。
「かなり重度のようだな」
そう言葉を放った束の間、機械人間は厳重そうな手錠を彼の手にかけ、暴れ抵抗する彼を無理やり押さえ付け気絶させた。
次に目を覚ました時、彼は真っ白い天井の下で横たわっていた。
彼が攫われたのは精神病院、それも都内の中心にある大きな病院だ。彼はそれを全て悟った後今すぐにでも抜け出そうと体を大きく動かす。が、思うように体は動かない、少し視線をずらすとその理由が分かった。四肢を固定されているのだ、がっちりと。どうしようも無くなった彼はひたすらに叫ぶ。
「ここから出せ。俺を洗脳させるつもりなんだろ、いい加減にしろ、早く助けてくれ。解放してくれ」
渾身の大声も誰かに届くはずもなく、返って彼の状況を悪化させた。四肢を固定した大きな錠からビリビリと電流が伝わることに気付く。だかそれに気が付いた頃にはもう遅かった。彼を襲う電流は次第に力を増していき、死へと追いやる。重度の感電を起こした彼は、涎を垂らし、白目を向き、喘ぎ、力を失う。しかしまだ息はあるようでしばらくしてまた目を覚ます。既に瀕死の状態ではあるが。
彼のベッドの向こう側には医者と誰かが会話をしている。
「彼はやはり、重度の後遺症を患っております」
「助かる方法は無いのですか」
「現代の科学技術じゃとても敵いません」
「じゃあこのまま息子を縛ったまま死ぬまで待てと言うのですか」
「そのつもりです」
医者との会話を繰り広げていたのは正真正銘彼の母親であった。
「ふざけないでください。私の息子は勇敢な子なんです、こんな病気に負ける程の男じゃないはずです」
「しかし今をご覧下さい、ありもしない洗脳に頭を悩ませ、幻覚さえも見ています。このまま助かる道は死しかないんです、それが彼を幸せにする」
彼は第三次世界大戦を生き延びた勇敢な戦士であった。しかし数多の仲間の死、殺人を知見した彼には脳に重い障害が残った。彼以外が洗脳されていたのではなく、彼自身こそが一種の洗脳に侵されていたのだ。
「息子は、本当にそれを望んでいるのですね」
「はい、私を信じてください」
そのまま母親は病室を離れ、医者は彼を一瞥した後母親を追うように病室を出た。ガタンと閉まったドア、その奥には今も幻覚に悶える彼がいた。ここ東京は今日も戦後に励む都民の姿があった。
ただ彼の頭にだけは電脳東京の世界があるのだ。