三 モーニングルーティン
パンの焼き上がる香りを幸せの香りと言っているのを何かで見た。こっちの世界の人がそんなこと言っているのを聞いたことがないから、これはたぶん、六花のほうの記憶だ。
リッカは毎朝、下の階から立ち込めるその幸せの香りとともに起きる。彼女の住むこの下宿は一階がパン屋になっていて、起きる頃にはその日の最初のパンがちょうど焼き上がる。
それに、素敵なことがあった翌朝は、その幸せを余計たっぷりと感じられる。
目を覚ましたリッカは、未だふわふわした気持ちでいた。昨夜の邂逅が頭から離れない。それにしても、一体どこをどうやって帰ってきたのだろう。ラヴェンナと名乗る美女を見送って、気がついたら次の瞬間には朝になってて、ベットで目を覚ましていた。というように、あの後の時間がそこだけごっそり抜け落ちたような気分だった。リッカはしばらくベットの上でぼーっとしていた。酒をしこたま呷って記憶をなくして帰ってきた六花の父親もこんな感じだったのだろうか、前世でも今世でも酒をほとんど呑まないリッカはそんなことを思って微笑んだ。それくらいを考える余裕は戻ってきた。
誰かに対してこんなにのぼせ上がった、なんてことは初めてだ。しかもその相手が同性だったとは驚きである。リッカはそう思うと、胸のあたりが変にくすぐったくなった。まるで心臓を直接触られているような気持ちの悪さを感じた。しかし、その気持ちの悪さが、一方では癖になりそうな心地もした。
下宿は内側も外側もパステルイエローの爽やかな黄色の壁が使われている。外からだと目立つし、中にいると気分が明るくなる。これはおかみさんの発案らしいが、曰く黄色は元気の出る色だから、とのことだ。床材も淡い色の白っぽい木材が使われているので、外から入り込んだ光は壁や床のあちこちに反射して、太陽の出ている時間、部屋はいつも明るい。それが少量の朝日であっても部屋全体にやんわり広がって、ぼやっとおぼろげに明るくしてくれる。この部屋は東向き、直接入る朝日がなおのこと気持ち良い。
リッカはこの部屋を、研究室よりもだいぶ綺麗に使っている。と言うのは、物をきちんと整理しているのではなく、整理するほどの物がないというだけであるけれど……。
部屋にはベットと机とクローゼットがあるくらい。机に本がないのは、ここでは勉強しないから、この机は手紙を書くときにしか使わない。服はクローゼットに全部収まっているが、どれも似たような白のブラウスと紺のスカートばかり。冬場に羽織る上着や外套も地味で無難な物だけ。また、そこにはアクセサリーの類を入れる小物入れが備え付けで用意されているのだけど、残念ながらそれになにか入ったためしはない。
唯一、机の片隅に一輪挿しの花瓶があって、そこにピンクのラナンキュラスの花が生けられ、乾いた部屋に一滴の潤いを垂らしていたけれど、これだってリッカがやったものではなく、となりの住人がリッカのずぼらさに呆れてやってくれたことだ。
綺麗に使っている、とは言ったが、見方を変えれば殺風景な部屋とも言える。しかし、それがたとえ殺風景であっても朝は綺麗な部屋で目覚めるのが一番いい。ベットから出て、窓を開け清浄な空気を肺いっぱいに取り込む。朝日をよく浴びてぐーっと背伸びすればリッカの一日がスタートする。
そうしたら、ちゃちゃっと着替えを済ませる。
クローゼットにあるのはどれも同じようなブラウスとスカート、でも、そのお気に入り度合いは微妙に違う。襟の形や袖のボタンの種類、スカートの丈の長さや絶妙な色の濃淡、他人から見ればたいした違いでなくても、気分のいい日はお気に入りを選ぶ。今日のブラウスはシンプルなものにした。でも一番肌触りのいいもの。スカートは少し長めで、腰のところがちょっと高くて締りのあるハイウエスト。普段と変わらない装いでもリッカ的にはナンバーワン。無頓着に見えて、誰にも気づかれないところで変なこだわりがある。
最後に、極めて丈の短い黒のマント——あるいはケープというかもしれない——を羽織る。どことなくセーラー服の襟をつけたような見た目になるが、これは大学都市において学生の身分を示す簡易的な記号になっている羽織だ。別に強制とか決まりではないれど、子供っぽいことがコンプレックスのリッカは、入学以来これを身に付けなかった日は一日もない。
今日のリッカはなんだか浮かれていた。誰もいない、姿見すらもない部屋で、透明な誰かに見せびらかすようにくるっとひとつ回ってみた。スカートが朝顔のようにふわっと開いた。
不意にラヴェンナが噴水でターンしたのを思い出してしまった。昨夜の鮮明な記憶。綺麗な横顔と風になびく髪の美しさ、そして優雅なターンの所作。比べてしまえば自分とはあまりにも違いすぎて、リッカはひとり恥ずかしさに悶えた。ただ、その裏では雲の上の存在を尊ぶような儚い気持ちもぼんやりと見つけたような気がした。この気持ち、なんて言うんだっけ。
着替えを終えて、部屋を出る。
リッカは一階へ降り、一度中庭に出て井戸水を汲み、顔を洗って口をゆすぐ。井戸の水は冷たくて眠気が一気に冷める。いつものルーティンをこなして、今度は食堂へ向かった。
食堂は焼きたてのパンの匂い、通称「幸せの香り」が充満している。奥でパン屋の厨房と繋がっているからだ。この時間おかみさんと旦那さん、そして見習いの少年と合わせて三人でパンを焼いている。
扉を開けると、充満していた香りが出口を求めて扉に押し寄せ、顔一面に襲いかかってくる。目覚めたときでもなく、パンを食べるときでもなく、この瞬間が香りを一番よく味わえる。
「おはようリッカ」
食堂の奥、下宿者用キッチンからリッカに明るく声をかけたのは、耳の尖った少女。エルフのその少女はくりくりとした可愛らしい瞳をぱちぱちして、ゆるくてふわふわで甘い見た目をしている。ところがその実は、内面にしっかりとした芯を持ち、案外しっかりしたお姉さんみたいな人なのだ。特に、リッカに対しては結構世話焼きで、部屋にあったあの一輪挿しも彼女の仕業なのである。
少女、と言ったが、実年齢は30に近いらしい。と言って、見た目は人間的には15,6くらいだから、やっぱり少女で差し支えはないのだろう。長寿のエルフゆえのスケール感のねじれ、とでも言うのだろう。
さっき彼女の内面についてお姉さんと評したが、それはリッカからみて多少お姉さん、見た目より少しお姉さん、というだけで、実年齢が30と聞くと、いや30にしては幼いな、と思ってしまうような印象がある。
この世界のエルフはだいたい300年は生きるらしく、そのなかでも長寿なら400年は生きると聞く。つまり人生の時間の1/10も消費してないのだ。そう考えると、見た目や内面の幼さもうなずける。
「おはようセレスト。遅れちゃってごめんね」
セレストという名のエルフの少女はキッチンで鉄製の平たい鍋を振るっていた。リッカはその焦げる匂いでわかる、これは牛肉だ。じゅうじゅうと音のするキッチンへ向かうリッカは、少し申し訳なさそうな顔をしていた。リッカはいつもセレストと朝食をともにし、その際一緒にキッチンに立つのだけど、どうにもちょっと寝過ごしてしまったようなのだ。そんなリッカにセレストが言った。
「昨日はとくに遅かったみたいだね、身体は大丈夫? おかみさんも心配してたよ」
「うん大丈夫、ちょっと疲れはあるけれど、でも気持ちのいい疲れなんだ。論文も目処がついたし、あとはどうにかなると思うよ」
「ほんと? よかった、論文できたらお祝いしなきゃね」
「えへへ、そんな論文出来たくらいでお祝いなんていいよ」
「えー、そう? せっかくだしどこかおいしいもの食べに行こうよ」
「まあお祝いとまではいかなくても、どこかおいしいもの食べに行くのはいいかもね」
「ほんと! じゃあ決まり。完成したら教えてね」
「うん、わかった、そうしよう」
「そうそう、今朝はおかみさんから牛肉をもらってね、あれでよかった?」
あれ、が何かは牛肉の香りがしたときから分かっている。
「もちろんだよ、ありがとうね、こっちも今準備するから」
リッカは戸棚のカゴから焼きたてのバゲットを二つ木皿にとって、そのバゲットの側面にナイフで切り込みを入れて開く。まだ温かいバゲットの内側から湯気が立つ。
リッカがそれをセレストのところへ持って行くと、薄切り牛肉とスライスした玉ねぎを茶色くなるまで炒めた具をのせていく。そうしたら、となりの火の弱いところで温められて溶けたチーズをその上にたっぷりかけた。そして最後にバゲットを閉じたらチーズステーキの完成だ。
もとになったフリィーチーズステーキはアメリカ南東部のフィラデルフィアで生まれた伝統的なファストフードである。本場では長いロールパンを使っているらしいので、もっとやわらかいのだろうけど、この街にそういうパンはない。そのため、この店でも作られるバゲットで代用しているが、これはこれで食感があって美味しいから問題はない。
これはある日、下宿の余り物を眺めていたとき六花の記憶にあったチーズステーキが降りてきて、それを試しに作ってみたというものだ。レシピが簡単だったこともあり、うっすらした記憶でも美味しく再現できた。周りの人にも振る舞ったところ大好評。おかみさんはこれをすぐに模倣して、今じゃこの店——黄色いパンの家——の名物になっている。
店の名前が見た目そのまんま、最初はどうかと思っていたリッカだったが、分かりやすいというのは案外悪くない。
リッカとセレストは席についた。おかみさんの作り置きしてくれた豆のスープにミニサラダとミルクも一緒に持っていった。
「じゃあ食べようか」
「うん。……本日も主の慈悲に感謝します」
「……感謝します」
目を閉じて祈りの口上を述べてから、チーズステーキにかぶりついた。
味の想像はつくだろう。どこにでもある食材の組み合わせ、難しい調理もしていない。
しかし、これが想像を軽く超えるうまさなのだ。組み合わせの妙なのか、それとも「チーズをかけりゃだいたいうまい」を体現しているだけなのか。チーズによって包まれたやわらかく立ち上がる味のアタック、そのあとで噛むほどにガツンと出る肉の旨み。鼻腔を抜けるチーズの香りから、ときどき肉の香りが顔を出して互いを補い合う。バゲットは懐深く具財を抱擁し、硬めの食感が咀嚼を促して味をたっぷりと楽しめる。
チーズステーキはいつ食べてもうまい。が、昨日の夜を逃したリッカには殊更うまいらしい。一口目は両目をぎゅっと力強く閉じながら咀嚼する。
「うーん、おいしいねえ。今朝は作ってくれてありがとう」
「全然いいよ、疲れているだろうしさ。それにリッカのレシピが簡単だから作るのも大変じゃないし」
二人はにこにこ笑いながら食事をし、他愛もない会話を楽しんだ。
すると食堂のドアが乱暴に開く。
「っよお、ってお前らまた朝からそんな重そうなの食ってんのか」
やってきたのはおでこの左側から小さな角が生えている青年の下宿生。オーガと呼ばれる種族の彼は、高身長で筋肉質でシュッとした顔立ちの割といい男で名をアデルという。
このアデル、リッカ相手にはすこしツンツンとつっかかる節がある。そしてリッカも割と簡単に乗っかってしまう。
「朝のお肉はむしろ健康的なのよ、昼間にしっかり代謝するから脂肪も残りにくいしね」
「リッカぁ、お前はもう少し脂肪でもつけて体大きくしたほういいんじゃないか?」
「なによ! 人のコンプレックス攻撃してくるとかサイテーね。アデルこそでかいくせに野菜ばっか食べて、もうちょっと肉でも食べないとワイルドが足りないわ」
「んだとお?」
「はいはい、そこまで。朝なんだかし他の人はまだ寝てるんだから、そこらでおしまいね」
やれやれといった空気を発しながら、セレストが二人をなだめる。
見ての通り三人は仲良しだ。下宿で出会った三人は、もう結構長い付き合いになる。
いつも通りの朝は賑やかに過ぎていく。