一 邂逅
勝利が見えたときに体が震える人がいる。それを武者震いとも言うらしいが、この物語の主人公リッカもまた、似たような身震いをおぼえていた。
彼女にとっての勝利とは、理論の完成である。
「よし、出来た」
ひとりぼっちの部屋でそう呟いた彼女は、ペンを握る左手も、紙を抑える右手も小さく小刻みに震えていた。オーク材の角ばった作業机には殴り書きした紙があちこちに散らかっている。
一体どれだけ集中していたか、喉の渇きも腹の減りもまったく気にならずただ無心に計算をしていた。だから終わった瞬間それらがどっと押し寄せる。
「あー、お腹すいた。そろそろ帰るか」
独り言をつぶやいて、彼女は窓際へ向かう。外はとっくに暗く、空には星が散る穏やかな夜になっていた。とりあえず、喉の渇きだけは水筒の水で潤して。
この世界の歴史に『大学』という言葉が初めて登場したのは今から150年前。戦争が終わって、とある城塞都市がその役目をなくしたが、そこにたまたま学者志望の若者が集まって、毎日のようにあれやこれや議論が盛んに行わると、それを聞きつけまた志を同じくする者が集まった。そうして学問の都が自然発生的に出来上がり、いつしかそこに住む学者たちは街全体を表す言葉として『大学』と用いるようになった。こうしてこの世界に初めて大学が生まれたのである。
モーカ大学都市、ここは最先端を行く学問の都。この世界、とは言い過ぎだけど、近隣の国のみならず、遠くの国からもここを目指す若者は後を絶たない。毎年たくさんの若者がここを訪れ、入れ替わるようにここを巣立つ。卒業生は各地に散って世界の有り様を少しずつ変えていた。この都市はそういうダイナミクスを孕んでいる。
リッカはこの街の学生、現在は学位習得のための論文執筆に追われている。
それも今日でようやく見通しがついた。後は清書して形にするだけだ。
リッカの体は達成感で満たされていた。体に押し寄せた疲労も、喉の渇きも空腹も、気持ちのいい満足感に味付けをするようなスパイスとなって、リッカを紅潮させるのに一役買っていた。
窓を開けて外気を取り込む。春の夜風はまだ冷たかったけれど、極度の集中と興奮によって火照った体を落ち着かせるには、むしろちょうど良かった。
すーっと入り込む乾いた風に髪がなびく。このあたりでは珍しい真っ黒な髪をちょっと触って、ついでにひとつ背伸びをする。固まっていた筋肉の繊維がコリコリ音を立てて喜んでいた。
外の景色をぼーっと眺めていたら、何か羽ばたくものを見つけた。最初は鳥かな? と思っていたけど、いいやそれにしては大きい。で、目を凝らすと、翼の生えた人間であることが徐々に見えてくる。
様々な人種が混在するこの世界。
有翼人、というのは確かに珍しいけれども、別に不思議なほどではない。リッカだって今まで何度か見たことはあるし、それこそ、たくさんの人種が集うこの街では、日常的にすれ違う。
それでも、リッカはそれを大層不思議なものでも見るように凝視していた。
「悪魔だ!」
そうつぶやいて窓を閉め、勢いよく飛び出した。
有翼人の翼は白い。これがこの世界の常識で、人はその美しい翼を称えて有翼人のことを『天使』と呼ぶことがある。だけれども、極めて稀に黒い翼をもつ有翼人がいるという。その人たちを『天使』と対比させるように『悪魔』と呼ぶのである。
今、空を飛んでいる有翼人、夜だから見えにくいけどその翼は白っぽくはなかった。本当に悪魔はいたんだ。一つは好奇心、もう一つは一目惚れとでも言うような気持ちに駆られて、リッカは居てもたってもいられなくなったのである。
古めかしい屋敷を改築した研究棟を出たならば、空を見上げてその有翼人を探す。さっき、はっきりと人の形が見えたのだから、そう遠くはないはずだ。記憶を辿って見えた方向に向かって走りだす。
向かったのは近くにある研究用の植物園。昔の貴族が持っていた庭園を再利用して作られたその施設は、季節によって様々な花が咲くけれど、それは統一感やテーマ性に欠け、芸術よりも実用に重きをおいた雑多なもので、まさに煩雑な『モーカ大学都市』を象徴するなんともごちゃごちゃした花園なのである。
そんなに遠くもないけれど、植物園に到着したリッカは息を切らしていた。たぶんこのへんに降りるんじゃないかな、そう思うリッカが上を向くと、確かに羽ばたく何者かがそこにいた。予想が当たったと、リッカは妙に高揚した。
徐々に高度を下げる有翼人。それは黒い翼をもつ『悪魔』の美女だった。
『天使』や『悪魔』なんて言ったところで、それは有翼人にすぎない。唯一空を飛べるという特徴以外に何か特別な力を持つわけじゃない。本当の天使のように奇跡を起こすことも、本当の悪魔のように厄災をもたらすこともなく、それらは所詮『翼の生えた人間』なのである。
にもかかわらず、一方は『天使』と称えられ、もう一方は『悪魔』と蔑まれる。リッカは一種の差別的な言葉だと思っていた。実際そういう意味もあるのかもしれない。ところが、実際に悪魔を見た瞬間、なるほどこれは確かに『悪魔』と言うに相応しい、とこう思ったのである。
つまりは、魅了されたのだ。本当の意味での一目惚れ。
広げた翼は体と交差して十字のシルエットを作り、それはダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図を想像させる。と言って、翼は両手を広げるよりはるかに大きいから、繋ぐと綺麗な円が現れるとか、美しい黄金比が隠れているとか、そういった本来のバランスは崩れているのだけれど、しかし人間のそれとは別に、どこかを結べばまた別の円かあるいは楕円ができそうだし、また何か美しいと感じる比率がどこかに潜んでいてもおかしくない、とそんな直感が働いたのである。長々言ったがつまり、『美しい』とシンプルにこう思ったのだ。これもまた、神の創りし造形美なのか、リッカには神を崇拝する敬虔さは持ち合わせちゃいないけど、この美しさを前には素直に神の偉業を認めざるを得ない。
悪魔はリッカに背を向けたまま、花園の真ん中にある枯れた噴水の縁に、ちょこんとやさしく降りたった。ここまで降りて来ると、その姿の細部まで良く見える。
翼の黒は暗黒。ピアノの外装のようなかすれ一つない黒は、高貴とミステリアスで縁取って、翼の造形の美しさを一段と高める。それと同じような黒色をしたワンピース型のドレスは、背中が色っぽく開いて、そこから翼が出ている。袖や裾には金色の糸で刺繍された幾何学模様の小さな装飾が施されていた。プリーツが入って裾に向かって広がる、Aの文字のシルエットをしたスカートの裾からは、卵ような白い足が、なまめかしくこぼれている。足には黒のハイヒール、靴底は、そこだけバラのような赤が妖しく塗られていた。
悪魔はくるっとひるがえり噴水から降りる。真上で煌々と光る月、それとよく似たホワイトブロンドの髪がふわっとひらいて、一本一本ばらけて宙を舞う。髪に反射した月光が光の粒となってきらきらと悪魔を取り巻き、まるで夜空に浮かぶ天の川のように燦然と輝く。リッカはそのときの光景が、生涯忘れられないものになった。人生で一番美しい光景、と言うのだろうか。連写した写真を一枚一枚見ているような、あるいはスローモーションの映像を見てるような、その瞬間だけリッカの知覚している時が極めてゆっくりと動いたのだ。「まるで相対論ね」これは、後にこのときのことを回想したリッカがぼそっと言った言葉である。
そうして、リッカの目にはものすごくゆっくりと映る景色のなか、振り返る悪魔の顔の全貌がだんだんと見えてくる。
透き通った肌の左の頬が、髪の隙間から見え始め、次第に鼻筋の通った横顔が現れる。横顔は飛騨山脈の稜線のようなくっきりとした凹凸があり、肌はまだ雪が残っているかのように白かった。眉は書道の達人が書いた「はらい」のように力強く、かと言って太すぎるわけではなく繊細な曲線をくっきりと描いている。目はちょっと垂れ下がってやさしく、瞳は瑠璃色の宝石をはめ込んだみたいに冷たく、それでいて綺麗。
「女の子が、女の子に見惚れるのはおかしなことですか?」
リッカは心のなかの自分にそう問いかけた。答えは返ってこない。
悪魔と目が合った。悪魔は地面にトンッと着地したら、リッカに向かって歩き出した。こっちを見ている。
ほとんど衝動的にここまで来てしまったリッカは、こんな近くで面と向かうなんて考えちゃいなかったから、いざそうなってどうすれば良いか分からなくて、テンパった。
リッカは熱でも出たみたいに頭がぼーっとしている。今更なにか考えるなんてとてもじゃないが出来やしない。
それでリッカは口を半開きにして固まっていた。
ああ、とても綺麗だ。体と翼のシルエット、翼の色、羽毛の一つひとつ、華奢に見えて引き締ったファッションモデルみたいなプロポーション、雰囲気をエレガントにする衣装、やわらくて色気のある髪、シャープな顔の輪郭に、一つひとつが職人の最高傑作みたいにおそろしいほど綺麗な眉目と鼻口。この美しさはもう、暴力だ。
リッカがそんなことを考えているのを、その悪魔は知って知らでか恍惚を帯びた笑みを向けてくる。そうして近づいて、彼女は揶揄うように口を開いた。
「こんばんは、お嬢さん。こんな夜に一人でいたら、あぶないよ?」
その声は微風に揺れたガラスの風鈴みたいによく澄んでいて、それでいて、か細く、突風が吹けば壊れてしまいそうな儚い色の音だった。
「あ、えっと、私このあたりを拠点にしている学生です、その、飛んでいたあなたがあんまりにも素敵だったから、つい……」
「へえ、学生さんだったんだ。それにしても、私のこと素敵って? 嬉しいこと言ってくれるね。じゃあ、こんなのはどう?」
そう言うと、悪魔はリッカのあごをちょこんと掴んで顔をくいっと上に向かせる。顔が近い。瞳がくっつきそう。
リッカは平均より身長の低い女である。もう19歳になるのに14,5歳と言われても違和感がなく、それどころか、元からの化粧っ気のなさも相まって、むしろ実年齢を言ったほうが怪しまれるほど幼く見えるのである。
一方で、目の前の悪魔ときたら、先にも言ったようにモデルのような体型であり、女の子の平均よりだいぶ背も高い。二人の身長差は歴然で、こうも近くに来るとそれだけで覆いかぶさるようになるのに、おまけに翼まであるのだ。リッカは、巨人の手で握られているかのように、その全身を悪魔によって包み込まれていた。
近くで見る彼女が、尊い。
瑠璃色の瞳は国宝の曜変天目茶碗のように美しい光を孕み、リッカはその美しさに吸い込まれそうになるほど見惚れていた。
「かわいい顔するんだね」
リッカは弄ばれているのだと理解していたけど、それすら案外心地よかった。不意に訪れた不思議な時間は、あっけなく終わりを迎える。
「なにをしている、行くぞ」
リッカの後ろから、女の人の声がした。鉄製の風鈴、それも厚みのある南部鉄器のような重くて芯のある声だ。悪魔の声がガラスのように繊細で壊れやすそうと言ったなら、今の声はなにがあっても壊れない、強さのある声だった。
「わかった、いくよ。
ごめんねお嬢さん、もう行かなくちゃ」
悪魔はリッカのおでこに軽くキスをした。そして耳元で囁いた。
「私はラヴェンナ、また会えるといいね」
ラヴェンナと名乗ったその美女悪魔は、一片の名残惜しさも感じさせないでリッカのもとを離れていった。それがリッカの胸をちょっと締め付けた。
「私リッカ」
リッカはそう言うので精一杯だった。本当は、もっといっぱい伝えたいと、たとえば普段どこにいるとか、よく行くお店とか、なんなら自分の下宿先だって言ってもいいと思いながらも、それが口を出ることはなく、ただただラヴェンナと、その連れの女が小さくなっていくのを見送るしかできなかった。
リッカの名乗りに、ラヴェンナは後ろ向きに手を上げて応えた。
ああ。やっぱり、ほんとうに『悪魔』だったんだ。
思い描いて形とはちょっと違うけど、それでも、たった一瞬で人をこれほど魅了する。
これを『悪魔』と呼ばずして、なんと呼ぶか。