第七十八話 :沈黙の捕虜と、黒曜石の扉
階段の踊り場に、静寂が戻った。
先ほどまでの、鋼と炎が交錯する死闘が、嘘のようだ。
後には、気を失った獣人の男と、特殊な網にかかり、悔しそうに闇滅隊を睨みつける糸使いの少女だけが残されている。
「……ふぅ。見事な連携でしたわ」
リリアナが、荒い息を整えながら、安堵の息をつく。
その額には、玉のような汗が光っていた。
「へっ、当然だ」
ファムは、気を失った獣人を一瞥し、拘束した少女を睨みつけながら言った。
「さて、どうする? このまま進むか?」
「いや、待て」
それまで黙って周囲の気を探っていたハヤテが、静かに制した。
「この先の気配が、変わった。奴らが、我々の侵入に、完全に気づいたようだ。まるで、分厚い鉄の壁が、下りてきたかのように、この先の全ての気配が、遮断されている」
「……ちっ。つまり、ここから先は、本当の地獄ってわけか」
ファムは、忌々しげに舌打ちすると、捕らえた少女の前に、再びしゃがみ込んだ。
「まずは、こいつらに、お喋りしてもらう」
ファムは、その顎を、短剣の切っ先でくい、と持ち上げた。
「おい、嬢ちゃん。無駄な抵抗はよしな。俺たちは、あんたらの仲間より、よっぽど腕が立つ。それは、もう分かっただろ?」
少女は、答えない。
その人形のような瞳には、憎悪でも、恐怖でもない、ただ、絶対的な忠誠心からくる、冷たい光だけが宿っていた。
「……口の利き方を知らねえガキには、体で教えてやるのが、スラムの流儀でな」
ファムは、その腕を掴み、関節が軋むほどに捻り上げた。
だが、少女は、苦悶の表情一つ浮かべず、ただ、その唇の端を、わずかに吊り上げた。
「……ドブネズミが。大導師様の大いなる御心の前では、貴様らなど、塵に同じ!」
「おやめなさい、ファム」
リリアナが、静かに、しかし、凛とした声で、彼女を制した。
「彼女の精神には、強力な守りの呪詛がかけられています。おそらく、組織の秘密を漏らそうとすれば、自壊する仕組み。物理的な拷問は、意味をなしませんわ」
リリアナは、そう言うと、自らの杖の先を、少女の額に、そっと近づけた。
繊細な魔力の光が、彼女の精神を探ろうとする。
だが、次の瞬間、リリアナは「ぐっ……!」と短い呻き声を上げて、後方へと飛びのいた。彼女の鼻から、一筋、赤い血が伝う。
「だめですわ……! 彼女の精神は、何重もの『守護の呪印』で固められている……! 無理にこじ開ければ、私の方が…!」
「ちっ、つくづく、面倒なことしやがる」
ファムは、忌々しげに舌打ちすると、今度は、気を失っている獣人の男の身体を、手早く、そして、徹底的に探り始めた。
「素人は黙ってな。こういう奴らは、一番バレねえ場所に、一番ヤバいもんを隠すんだ」
だが、懐から出てきたのは、数枚の銅貨と、使い古されたナイフだけ。
「……くそっ。こいつら、本当にただの『駒』か。何も、持たされてねえ」
ファムが、諦め悪く、獣人の男の、分厚い革のブーツに手をかけた、その時だった。
「ん……?」
ブーツの内側、その、くるぶしの辺りに、何か、硬いものが、縫い込まれている。
ファムは、短剣の切っ先で、慎重にその縫い目を切り裂いた。
中から、ころり、と転がり出てきたのは、指の第一関節ほどの、小さな、小さな、黒い石だった。
それは、黒曜石のようにも見えるが、どこか違う。
リリアナが放つ、聖なる光を、まるで闇が光を飲み込むかのように、吸収し、一切の輝きを反射しない。
そして、何よりも、異様だった。
石からは、何の魔力も、邪気も、感じられないのだ。
ただの、石ころ。
「なに、これ……」
リリアナが、おそるおそる、その石に、杖の先を近づける。
だが、何の反応もない。
「ナシル。お前の『鏡』で、見てみろ」
ファムの言葉に、ナシルは、頷くと、『真実の鏡』の欠片を、その黒い石にかざした。
次の瞬間、ナシルは、「うっ」と、呻き声を上げて、鏡を投げ出しそうになるのを、必死でこらえた。
「どうした!?」
「……見えない。いや、違う。この石は、ただ、そこにあるだけだ。だが、鏡を通すと、この石の『背景』に、何か、とてつもなく、おぞましいものが……まるで、宇宙の闇そのものが、口を開けているかのような……」
ナシルの顔から、血の気が引いていた。
鏡が、真実を映すことを、本能的に、拒絶している。
「これ以上は、ダメだ……魂が、持っていかれる……!」
「この石は…魔力に反応しているのではありません」リリア-ナが、戦慄に声を震わせた。「魔力そのものを、『無』に還しているのです。こんな現象、聞いたことない……!」
「……一度、退くぞ」
その場に、重い決断を下したのは、ファムだった。
「こいつは、ヤバすぎる。このまま、訳も分からず進むのは、自殺行為だ。この石と、捕虜を、一旦、ライアスの元へ持ち帰る。態勢を、立て直すんだ」
その決断に、誰も、異を唱える者はいなかった。
彼らは、確かに勝った。
だが、その勝利によって手に入れたのは、敵の秘密ではなく、自らの理解を、あまりにも超越した、新たな『謎』だった。
一行は、気を失った獣人を担ぎ、抵抗しない少女の手を引いて、今、来たばかりの螺旋階段を、上り始めた。
一歩、また一歩。
彼らの足音が、静まり返った地下空間に、重く、響き渡る。
彼らの心には、勝利の高揚感など、もはや、微塵も残ってはいなかった。
ただ、得体の知れない、底なしの闇の、その入り口を、垣間見てしまったという、冷たい、確かな手応えだけが、のしかかっていた。




