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第七十五話:女神の迷惑料

 

 ルミナリア大聖堂に響き渡った、聖勇者の絶叫。


 それは、あまりにも場違いで、そして、あまりにも真に迫っていた。


 白亜の床に転げ、頭をかきむしり、光と音の奔流に身をよじって苦しむ田中樹の姿。


 やがて、糸が切れたように、その場にぐったりと倒れ、動かなくなった。


 その異常事態に、使節団も、出迎えた聖堂騎士団も、誰もが動きを止めた。


「勇者様!?」


「イトゥキ様、しっかり!」

 リリアナとライアスが、我に返って駆け寄る。


 その動きは、驚くほど冷静で、そして無駄がなかった。


 ライアスは、倒れた樹の周囲に即座に円陣を組むよう、自らの騎士たちに命じる。


 彼の瞳は、もはや混乱しておらず、ただ、この聖都の、底知れない脅威を正確に測ろうとする、指揮官のそれに変わっていた。


 その、張り詰めた空気を、静かに、そして巧みに支配したのは、枢機卿ヴァレリウスだった。


「……おお、なんということだ。勇者様の御魂は、あまりにも清らかで、敏感であられる。この大聖堂に満ちる、我ら女神のあまりに強大な御力に、当てられてしまわれたか。……可哀想に」

 その完璧な対応に、ライアスは異を唱えなかった。


 彼はヴァレリウスの目を真っ直ぐに見据え、静かに、しかしきっぱりと言った。


「枢機卿猊下、勇者殿の身柄は、我らロムグールの騎士が、責任をもって警護させていただきます」

 意識が、深く、暗い水底へと沈んでいく。


 頭を割るような痛みも、耳を裂くような歌声も、全てが遠のいていく。


 ◇


 ふかふかの、雲のようなソファの上。


 一人の、絶世の美女が、だらしなく寝転がっていた。


 女神ルミナリナの、怠惰な午後のひととき。


 その時、ポスンッ、と。部屋のど真ん中に、何の予兆もなく、一人の少年が、突然、姿を現したのだ。


『な、な、な、なんですか!? なんで、あなたみたいな下級の魂が、わたくしのプライベート神域サンクチュアリに勝手に入ってきてるのよ! 不法侵入よ!って、あなた勇者じゃない!?』


 慌ててソファから飛び起きる女神。


 その姿に、神々しい威厳など、もはや欠片もなかった。


「……ってて……。なんだよ、ここ……。あんた……誰だよ」

 床に尻餅をついたまま、呆然と目の前の美女を見上げる樹。


『あら、失礼ね。わたくしは、そうねぇ、分かりやすく言うと、この世界を管理している女神、ってところかしら。あなたが、わたくしの許可なく、ここにいることの方が、よっぽど問題なんだけど?』

 その言葉と、およそ神とは思えぬ軽薄な態度に、樹は混乱する。


『もう! あの聖都の連中の仕業ね! あいつらがわたくしの力を勝手にいじくり回すから、そのせいで発生した魔力のバグが、あなたっていうアンテナを通じて、わたくしのプライベート回線にまで逆流してきたっていうの!? 最悪よ!』


 女神は、ぷりぷりと怒りながら、さらに樹の魂の奥深くを覗き込み、そして、二度目の、そして、より大きな衝撃に、その場で凍りついた。

『ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ちなさいよ! あなたの魂、何これ!? なによ、この、おかしな力は! こんなの、わたくしが召喚した時には、絶対に、これっぽっちも、なかったわよ!』


「はあ? 力? ああ、そういや、なんか、この前、ヤバいって時に、ピカーって光ったような気もするけど……。あれか? でも、出し方とか全然わかんねえし、そもそも俺の意思じゃねえし! アレ、俺の力なのかよ? もっとこう、自在に、ズバッと出せねえのかよ!」


『……はぁ……。頭が痛くなってきたわ……。もう、いいわ。あなたをこんな面倒な世界に無理やり連れてきた、わたくしからのささやかな『迷惑料』ってことにしてあげる。特別よ? ありがたく聞きなさい』

 その瞳が、初めて、神としての、冷たい光を宿した。


『あの、人の良さそうな顔をした枢機卿……ヴァレリウスには、よーく注意することね。あの男、わたくしが今まで見てきた人間の中でも、トップクラスに、腹の中が真っ黒よ』


「……あの、胡散臭ぇジジイが……?」


『ヒントは、ここまで! わたくしは、基本的に、下界のことには干渉できないの。あとは、あなたと、あの苦労性の王様でなんとかしなさい! じゃあね!』

 女神は、それだけを一方的に言い放つと、パチン、と指を鳴らした。


 次の瞬間、樹の身体は、神域から、強制的に、そして、無慈悲に、蹴り出された。


 静かな、豪奢な客室。ベッドの上で、樹は、うめき声と共に、がばりと上半身を起こした。


「……いてぇ……。なんだよ、夢か……? いや、あの女神……本当に存在すんのか……」

 頭がガンガンする。さっきまでの出来事が、夢か現か、判別がつかない。


「目が覚めましたか、イトゥキ様! ご気分は……」

 傍らで、心配そうに彼を覗き込んでいたリリアナが、安堵の声を上げる。


 だが、樹は、彼女の言葉を遮るように、ベッドから転がり落ちた。


「おい、リリアナ! あの、枢機卿とかいうジジイはどこだ!? あいつのせいなんだろ、俺が倒れたのは! 絶対そうだ! さっき出てきた女神がそう言ってたぞ!」

 彼は、混乱した頭で、女神から得た唯一の情報を、そのまま叫んだ。


「め、女神様、ですって!?」

 リリアナは、彼の、あまりにも突拍子もない言葉に、絶句した。


「イトゥキ様、お気を確かに! 熱にうなされているのでは……? 幻でも、ご覧になったのやもしれませぬ」


「幻じゃねえ! 俺は、確かに会ったんだ! あの、ふざけた女神に! あいつが言ってたんだよ! あの枢機卿は、腹の中が真っ黒だってな! 俺の頭痛と、あの変な気分は、全部あのジジイのせいだ! 思い出しただけでもムカついてきた! あの胡散臭い笑顔、ぶん殴ってやりてえ!」

 樹は、子供のように、しかし、本気の怒りを込めて、部屋の扉へと向かおうとする。


 それは、もはや、いつものような、ただの我儘ではない。


 彼にとって、初めての、自分の身に起きた理不尽に対する、明確な「反撃」の意志だった。


「お待ちください、勇者様!」

 ライアスとサー・レオンが、慌てて部屋に飛び込んできて、暴れる樹を取り押さえる。


「離せ! 俺は、あいつを問い詰めに行くんだ!」


「なりません! 状況も分からぬまま、軽率な行動は……!」


 部屋は、一瞬にして、大混乱に陥った。


 リリアナは、その光景を、呆然と見つめていた。


 これまでの、ただの「お荷物」だった少年は、今、より厄介で、そして、より予測不能な、「爆弾」へと、変貌を遂げようとしていた。


 そして、その怒りの矛先が、この聖都で、最も触れてはならない人物へと、真っ直ぐに向いていることに、彼女は、新たな、そして、より深刻な頭痛を覚えるのだった。

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