第六十九話:地下水道の死闘
静寂。
目の前の、おびただしい数の「白紙の免罪符」が放つ、無音の悪意に、その場にいた誰もが、言葉を失っていた。
それは、どんな魔物よりも、どんな呪詛よりも、恐ろしい光景だった。
「……なんだよ、これ……」
ファムの声が、震えていた。
「教会が……アルカディア正教の、一番、深いところが……もう、手遅れなのかもしれませんわ……」
リリアナは、その場で、へたり込みそうになるのを、必死にこらえていた。
「……いずれにせよ、我々は、この証拠を、国王陛下の元へ、持ち帰らねばならない」
ライアスの冷静な声に、一行は我に返った。
現場指揮官であるファムは、苦渋の決断を下す。
「……ちっ! 分かったよ! 一箱だけだ! 一箱だけ、サンプルとして持ち出す! 残りは、燃やす! これ以上の譲歩はしねえぞ!」
作戦は、直ちに実行された。
リリアナが、残った魔力で、倉庫の内部に、大規模な発火の魔術を仕掛ける。
時間差で発動し、全てを焼き尽くす算段だ。
ライアスとレオンが、証拠となる免罪符の木箱を、担ぎ上げる。
そして、一行は、ヴァンドールの、汚れた闇へと、再びその身を投じた。
だが、ファムの予測通り、街は、すでに、彼らを捕らえるための、巨大な網を張り巡らせていた。
表通りは、オリオン商会が雇った、柄の悪い傭兵たちで、完全に封鎖されていた。
「……道は、一つしかねえな」
ファムは、マンホールの蓋を指差した。「この街の、ドブの中を、進む」
ヴァンドールの地下に広がる、広大な下水道。
それは、この街が、地上に吐き出せない、全ての汚物と、秘密が流れ着く場所だった。
一行は、鼻を突く悪臭と、ぬるりとした足元に顔をしかめながら、唯一の脱出ルートを、慎重に進んでいた。
ライアスとレオンが、先頭と最後尾を固め、中央では、リリアナが、小さな光の玉を浮かべて、周囲を照らしている。
その時だった。
ゴポッ、と。
前方の、汚水が流れる水路の水面が、不自然に泡立った。
「……何だ?」
ライアスが、警戒して盾を構える。
次の瞬間、水面が、まるで生きているかのように、大きく盛り上がった。
そして、中から、半透明で、巨大な、アメーバ状の何かが、ぬるりと、その姿を現したのだ。それは、この狭い地下道を、完全に塞ぐほどの大きさだった。
「ひっ……!」
樹が、小さな悲鳴を上げる。
「スライムか? いや、違う! こんな邪悪な気配を放つスライムなど、聞いたことがない!」
バルカスの代理で来たライアスが叫ぶ。
「ギルドの奴ら……! こんな化け物を、この街の地下で、飼ってやがったのか!」
ファムが悪態をつく。
怪物は、声を発しない。
だが、その身体の一部が、鞭のようにしなり、強酸性の体液を、一行めがけて吐き出した。
「盾を構えろ!」
ライアスとレオンが、咄嗟に大盾を構える。
ジュウウウッ!と、鋼の盾が、酸で溶ける嫌な音が響いた。
「物理攻撃は、おそらく効かんぞ!」
サー・レオンが叫ぶ。
「リリアナ!」
「はい! 【フリージング・ウェイブ】!」
リリアナの詠唱に応え、絶対零度の冷気が、怪物の表面を凍りつかせ、その動きを、一瞬だけ、鈍らせた。
「ナシル! 核はどこだ!」
ファムが叫ぶ。
「待て、探している! こいつ、身体の中で、核を高速で移動させてやがる!」
ナシルが、鏡の欠片をかざし、必死に弱点を探る。
その時、動きの鈍った怪物から、新たな触手が、鞭のように伸び、後方のリリアナと樹を、直接狙ってきた!
「させるか!」
ハヤテとシズマが、その前に立ちはだかり、霊刃で触手を切り裂く。
だが、切り裂かれたそばから、瞬時に再生してしまう。
「くそっ、キリがねえ!」
「このままでは、ジリ貧だ!」
焦りが、一行を包む。
その、絶望的な状況下で、田中樹の身体が、再び、あの現象を引き起こした。
彼の【神聖】スキルが、目の前の、純粋な、そして強大な邪気の塊に、激しく反応したのだ。
樹の身体から、淡い、黄金の光が、放たれる。
それは、先の倉庫で、仲間を守りたいという強い意志で発動させた【守護の聖域】ほど、強力なものではない。
だが、その、ただ、そこに「在る」だけの、清浄な光に、怪物は、明確な「拒絶反応」を示した。
「■■■■■■■■ッ!!」
怪物は、初めて、声にならない、精神に直接響くような、苦悶の絶叫を上げた。
樹の放つ光に触れた部分が、聖水に触れた吸血鬼のように、白く変色し、激しく泡立っている。
怪物は、本能的な恐怖から、樹から距離を取ろうと、その巨大な身体を、大きく後退させた。
「……今だ!」
その、ほんの一瞬の硬直と、後退。
ナシルは、それを見逃さなかった。
「核が、止まった! 身体の、中央上部だ!」
彼の声に、全員が反応した。
「リリアナ、光を!」「【ライト・アロー】!」
「ファム、ジエン、牽制を!」「応!」「承知!」
「レオン殿! 行くぞ!」「はい!」
ライアスとレオンが、再び、正面から突撃する。
ファムとジエンが、左右から、敵の注意を引くために、無数の短剣や石つぶてを投げつける。
リリアナの放った光の矢が、怪物の身体を眩惑する。
そして、その全ての陽動によって生まれた、ただ一点の、完璧な好機。
「―――そこだ!」
ヤシマの剣士、ハヤテとシズマの二人が、左右の壁を蹴り、宙を舞った。
二振りの霊刃が、ナシルが示した、ただ一点の「核」めがけて、十字を描くように、寸分の狂いもなく、突き刺さった。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■ッッ!!!!」
怪物は、最後、魂の底からの絶叫を上げると、その巨体を維持できなくなり、まるで泥のように、崩れ落ち、汚水の中へと、溶けて消えていった。
後に残されたのは、荒い息を繰り返す、連合部隊の面々だけだった。
「……やった、のか……」
ライアスが、呟く。
「ああ。だが、長居は無用だ。さっさと、ずらかるぞ」
ファムが、一行を促す。
彼らは、静まり返った地下水道を抜け、鴉が手配した、小さな入り江へとたどり着いた。
そこには、一隻の小舟が、彼らを待っていた。
一行は、夜が明け始めた、ヴァンドールの薄汚れた空の下、ようやく、安堵のため息をついた。
彼らは、生き延びたのだ。
そして、その手には、大陸全土を、内側から崩壊させかねない、恐るべき「爆弾」を、確かに、握りしめていた。




