第六十八話:白紙の赦し
第十三倉庫の中は、鉄と血の匂いが充満する、混沌の戦場と化していた。
「囲め! まずは、あの女魔術師を黙らせろ!」
警備兵のリーダーが、指示を飛ばす。
数の利は、圧倒的に敵にあった。
ライアスとサー・レオンは、それぞれが鬼神のごとき強さで戦うが、次から次へと襲いかかる屈強な警備兵たちを相手に、リリアナと樹の元へ近づくことすらできない。
そして、ギルドの魔術師たちは、その好機を見逃さなかった。
彼らは、この作戦における真の脅威が、屈強な騎士たちではなく、後方にいる、たった一人の少女――リリアナであることを、見抜いていた。
「―――闇よ、集え。彼の者の魂を、絶望の泥濘へと引きずり込め」
三人の魔術師が、同時に、陰湿な呪詛の詠唱を開始した。
そのターゲットは、リリアナではない。
彼女が、自らの魔力で、必死に守ろうとしている、その背後で、ただ、震えているだけの勇者。
「イトゥキ様! 危ない!」
リリアナが、自らの防御障壁を、さらに強化しようと、杖を構え直す。
だが、その動きは、警備兵との戦闘で、一瞬、遅れた。
三つの呪詛が、三方向から、黒い蛇のように、樹へと襲いかかる!
「あ……」
樹の目に、黒い蛇が、スローモーションのように映る。
怖い。
死ぬ。
その、単純な恐怖が、彼の全身を支配した。
だが、次の瞬間、彼の目に映ったのは、自分を守るために、無防備に身体を敵に晒しながら、必死に防御魔法を詠唱している、リリアナの姿だった。
ライアスが、自分にたどり着くために、敵の刃を、その肩に受けながらも、前へ進もうとしている姿だった。
レオンが、自分に注意を促すために、絶叫している姿だった。
―――俺のせいで。
―――また、俺のせいで、みんなが……!
「ふざけんじゃねえぞ……ッ!!」
それは、もはや、恐怖からではない。
腹の底から、魂の底から絞り出した、純粋な『怒り』だった。
シルヴァントの森で、あの時、自分の中から溢れ出した、あの温かい、黄金の光。
どうやったのかは、分からない。理屈も、知らない。
だが、彼は、祈った。願った。叫んだ。
(―――動け! 動けよ、俺の力! 今、動かなきゃ、また、みんなが……!)
「やめろぉぉぉぉぉおおおおおおおっっ!!」
樹は、無意識に、両腕を広げ、リリアナを守るように、その前に立ちはだかった。
黒い呪詛の蛇が、彼の、その無防備な身体に、食らいつこうとした、その瞬間。
―――閃光。
彼の、仲間を守りたいという、ただ一つの、純粋な意志に応え、その身に宿る伝説級の力が、再び、その奔流を解き放った。
スキル【守護の聖域】が、彼の意志の力によって、今、再び、発動した。
黄金の光は、巨大な壁となって、樹の前方へと展開される。
三匹の呪詛の蛇は、その神々しい光の壁に触れた瞬間、悲鳴を上げる間もなく、霧散した。
「なっ……馬鹿な!? 我らの呪詛が、いとも容易く…!? シルヴァントでの報告は、真実だったというのか!」
魔術師たちが、驚愕に目を見開く。
黄金の光の壁は、止まらない。
それは、リリアナを、ライアスを、レオンを、そして、この場にいる全ての仲間たちを、守るように、さらに、その範囲を広げていく。
その光に触れた警備兵たちは、武器を取り落とし、その場にひれ伏した。彼らの身体に染み付いていた、ギルドの邪悪な魔力が、聖なる光によって、強制的に浄化されていく。
「あ、身体が……軽い……?」「俺は、今まで、何を……」
彼らは、まるで、長い悪夢から覚めたかように、呆然と、自らの手を見つめていた。
「……なんなんだよ……」
樹自身も、自らの身体から放たれる、あまりにも強大で、そして、温かい光に、戸惑っていた。
「今だ! 敵は、勇者様の力に、怯んでいる! 一気に、方を付けるぞ!」
ライアスの号令が響く。
この、千載一遇の好機を、歴戦の騎士たちが見逃すはずもなかった。
もはや、敵ではない。
戦意を喪失し、あるいは、呪いから解放されて呆然とする者たちを、彼らは、手早く、そして、的確に制圧していった。
やがて、黄金の光が、ゆっくりと、収まっていく。
同時に、樹は、立っている力もなくなったかように、その場に、膝から崩れ落ちた。
「……はぁ……はぁ……。な、なんだよ、今の……。すげー、疲れた……」
彼の意識が、遠のいていく。
「イトゥキ様!」
リリアナが、駆け寄り、その身体を、優しく支えた。
「……大丈夫。ただ、力を使い果たして、眠ってしまっただけですわ」
彼女は、眠る樹の顔を見下ろしながら、その目に、これまでにないほどの、深い尊敬と、そして、慈しみの色を浮かべていた。
事務所から戻ってきたファムが、その光景を一瞥し、そして、呆れたように、しかし、どこか面白そうに呟いた。
「……『探知機』兼『対呪詛結界』か。なるほど、王様の意図はこれだったわけだ。だが、発動条件が本人のパニックと善意ってんじゃ、戦略兵器としては、あまりにも不安定すぎるな」
「さて」ライアスが、剣を鞘に収めながら、倉庫の中央に置かれた、ひときわ巨大な、そして、厳重に封印された木箱を、顎でしゃくった。
「残るは、本日のメインディッシュ。今回の『特別な積荷』と、いこうか」
騎士たちが、数人がかりで、その木箱の蓋を、バールでこじ開けていく。
中には、一体、何が入っているのか。
一行は、固唾をのんで、その中を覗き込んだ。
そして、言葉を失った。
武器でも、財宝でもない。
魔族でも、呪詛の道具でもない。
そこにあったのは、ただの、しかし、おびただしい数の、羊皮紙の束だった。
「……なんだ、こりゃ。ただの紙切れか?」
ファムが、訝しげに一枚を手に取る。
だが、その羊皮紙を見たリリアナの顔が、サッと青ざめた。
「……いけません! それは……!」
彼女は、ファムの手から、まるで恐ろしいものでも触るかのように、その羊皮紙をひったくった。
そして、自らの魔力を通し、その紙を、慎重に鑑定し始める。
「……嘘、でしょう……?」
やがて、彼女は、震える声で呟いた。
「この羊皮紙は、教皇領サンクトゥム・ルミナの聖域でしか作られない、特別な霊木紙…。そして、この、隅に押された小さな印は……アルカディア正教の、教皇猊下のみが使用を許される、『神の代理人』の印章……。間違い、ありません。これは……」
「―――『免罪符』の、原紙ですわ」
リリアナの言葉に、その場にいた、ライアスや、サー・レオンといった、敬虔な教徒である者たちの顔が、驚愕に凍りついた。
「しかし、おかしい。ギルドが、なぜ、こんなものを……」
ファムは、さらに、木箱の底から、別の羊皮紙の束―――積荷の、本当の出荷先が記された裏帳簿を見つけ出した。
「……おい。こいつの、行き先が書いてあるぜ」
彼女が、その宛名を読み上げる。
「『大陸各地の、スラム街、及び、刑務所、□□□、計三百二十七箇所へ、これを配布せよ』……?」
一部、読み取れない箇所があるが、これは普通ではない。
彼らの目的は、金儲けではない。
この、「本物の免罪符」を、大陸中の、罪人や、無法者たちの手に、無差別に渡すこと。
「どんな罪を犯そうとも、これを一枚持っていれば、神はお許しになる」
その、あまりにも甘美で、そして、危険な「赦し」が、大陸全土に蔓延した時、一体、何が起こるか。
法も、秩序も、人の善意も、全てが意味をなさなくなる。誰もが、己の欲望のままに、罪を犯し、世界は、内側から、際限のない混沌と、暴力に、沈んでいく。
それは、モルガドールのような、分かりやすい破壊ではない。
社会そのものを、人の心の繋がりそのものを、根底から破壊し尽くす、最も静かで、そして、最も残忍な、テロ計画だった。
一行は、勝利の余韻に浸る間もなく、自らが、とんでもない「爆弾」の、その信管を、今、まさに、その手に握ってしまったことを、悟ったのだった。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
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