第六十二話:英雄の寝顔と、新たな絆
呪いが晴れた社の本殿に、朝の光が、まるで祝福のように、穏やかに差し込んでいた。
邪悪な気配は完全に消え失せ、代わりに、雨上がりの土のような、清浄な匂いが満ちている。
黒くねじくれていた木々の根は、その呪詛から解放され、静かに大地へと還っていた。
「……終わった、のか」
バルカスは、鎧のあちこちが破損し、大きな傷を負いながらも、その光景を呆然と見つめていた。
彼の傍らでは、闇滅隊の面々が、息を切らしながらも、警戒を解かずに周囲を窺っている。
誰もが、つい先ほどまで、この場所が死と絶望に支配されていたことが、信じられないでいた。
一行の中心では、ロザリアが、気を失った田中樹の頭を、自らの膝の上にそっと乗せ、治癒の魔法をかけていた。
「……大丈夫です。ただ、全ての力を使い果たして、眠っているだけです」
彼女の声は、疲労でかすれていたが、その表情は、聖母のように、慈愛に満ちていた。
「……あの、馬鹿……。本当に、やりやがった……」
壁に寄りかかりながら、ファムが、悪態とも、感嘆ともつかぬ声で呟いた。
彼女は、樹がロザリアを突き飛ばし、自らが盾となった、あの瞬間を、確かに見ていた。
信じられない、と今でも思う。
あの、自分勝手で、臆病で、食い意地の張っただけの少年が、自らの命を投げ出すなど。
「陛下は……アレクシオス様は、この結果すらも、予期しておられたのだろうか……」
バルカスは、眠る樹の、あどけない寝顔を見下ろしながら、自らの王のその底知れない器量に、改めて戦慄していた。
数時間後。
「……ん……。あれ……? 俺、死んだ……? 天国か……? ステーキの匂いが、しねえな……」
樹が、ゆっくりと目を覚ました。
彼の最初に発した言葉は、やはり、食べ物のことだった。
その根幹の部分は、そう簡単には変わらないらしい。
「目が覚めましたか、勇者様」
彼が最初に見たのは、すぐそばで、安堵と、そして、これまでにないほどの尊敬の眼差しで、自分を見つめるロザリアの顔だった。
「……なんだよ、その顔。気色悪いな……」
「ふふっ。ありがとうございます、勇者様。貴方様が、私達を、この森を、救ってくださったのです」
ロザリアの、一点の曇りもない、純粋な感謝の言葉。
それに、樹は、どう返していいか分からなかった。いつものように「当たり前だろ!」と胸を張ることも、ふざけてみせることもできない。
彼は、ただ、顔を真っ赤にして、ぷいっとそっぽを向いた。
「……べ、別に……。俺は、ただ、死にたくなかっただけで……」
その、しどろもどろな言い訳に、ロザリアは、ただ、優しく微笑むだけだった。
一行は、呪いの消えた森を抜け、先日訪れた、あの生気のなかった村へと戻った。
村の様子は、一変していた。
大地を覆っていた黒い枯れ葉は消え、土は、まだ痩せてはいるものの、生命の色を取り戻している。
虚ろな目をしていた村人たちの顔にも、生気が戻り、彼らは、ロザリアと、そして、その後ろにいる樹の姿を認めると、涙ながらに、その場にひざまずいた。
「おお……癒し手様!」「そして、聖勇者様!」「我らの土地を、救ってくださり、ありがとうございます!」
その、心からの感謝の言葉に、樹は、居心地が悪そうに、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
その日の夜、王都の作戦司令室へと、調査団からの作戦完了報告が届けられた。
水晶に映し出されたバルカスが、誇らしげに、しかし、簡潔に報告する。
「―――陛下。シルヴァラント西部を蝕んでいた『黒枯れ病』、その元凶たる呪詛の浄化に、成功いたしました」
その言葉に、アレクシオス、セレスティナ、そして会議に参加していた全ての者から、安堵と歓声が上がる。
「素晴らしいわ、バルカス殿! 皆様、本当に、ありがとうございます!」
セレスティナが、涙声で感謝を述べる。
帝国のヴァレンティンは、苦々しげな顔で、その光景を見ていた。連合の、それもロムグール主導のチームが、またしても手柄を立てたのだ。彼の政治的立場は、ますます苦しくなっていく。
「して、バルカス」
アレクシオスは、努めて冷静な声で、最も重要な問いを投げかけた。
「勇者殿は、どうであった?」
その問いに、バルカスは、一瞬だけ、言葉に詰まった。
そして、眠っている樹の顔を思い浮かべ、複雑な、しかし、どこか誇らしげな表情で答えた。
「……はっ。勇者殿は……その、与えられた役目を、見事に、果たされました。彼の方の貢献なくして、この勝利はあり得ませんでした」
その、曖昧だが、しかし、これ以上ないほどの賛辞。
それは、連合の各国の代表たちに、「ロムグールの勇者」の、その得体の知れない価値を、改めて強く、深く、印象付けたのだった。
その夜。
調査団が野営する焚火の傍らで、樹は、一人、火をいじっていた。
彼は、まだ、混乱していた。
自分が何をしたのか、なぜ生きているのか、そして、胸の中に渦巻く、このむず痒いような、誇らしいような、奇妙な感情が何なのか。
その彼の元へ、ファムが、音もなく近づいてきた。
彼女は、何も言わずに、こんがりと焼いた、香ばしい匂いを立てる猪肉の塊を、無造作に、彼の隣に置いた。
「……なんだよ、これ」
樹が、訝しげに彼女を見る。
「……あんたが、今日のMVP、だろ?」
ファムは、そっぽを向きながら、ぶっきらぼうに言った。
「腹、減ってんだろ。食いな」
その言葉には、いつものような棘がなかった。
樹は、黙って、その肉塊を手に取った。
そして、大きく、かぶりついた。
肉の旨味と、脂の甘みが、口の中に広がる。
それは、彼が、この世界に来てから食べた、どんなステーキよりも、どんなご馳走よりも、遥かに、美味しく感じられた。
新しい絆が、不器用な、しかし、確かな形で、彼らの間に、静かに芽生え始めていた。




