第五十八話:合流、そして呪いの社へ
シルヴァラント公国西部に広がる「黒き森」。
かつては、豊かな恵みをもたらすことで知られたその森も、今や、呪詛によって生命力を奪われ、不気味な静寂に包まれていた。
黒くねじくれた木々が、まるで亡者のように空へ向かって手を伸ばし、地面には、枯れた葉が、骨のように乾いた音を立てて積もっている。
その、死の世界を、バルカス率いる調査団は、息を殺して進んでいた。
「……空気が、重い。邪気が、肌にまとわりつくようですわ」
リリアナが、顔をしかめて呟く。
彼女ほどの魔術師ですら、この濃密な呪いの気配には、精神を消耗させられるようだった。
「ロザリア殿、大丈夫か」
バルカスが、隣を歩くロザリアに声をかける。
彼女は、馬上で、顔を真っ青にさせて、小さく震えていた。
「は、はい……。大地が、ずっと、悲鳴を上げていて……。ごめんなさい、少し、気分が……」
大地と深く感応する彼女にとって、この土地を歩くことは、拷問にも等しかった。
そして、その後ろで、田中樹は、ただ黙って、馬に揺られていた。
彼は、不平不満を言う代わりに、アレクシオスから渡された、いびつな「おにぎり」の最後の一個を、大切そうに懐から取り出し、一口、また一口と、ゆっくりと味わっていた。
ヤシマとの繋がりによって、手に入れた米。
しょっぱい、米の塊。
それが、今の彼にとって、唯一、現実と自分とを繋ぎとめる、お守りのようなものだった。
やがて、一行は、古びた石像が目印となっている、小さな洞窟の前で足を止めた。
バルカスが、合図の角笛を短く吹く。
すると、周囲の岩陰や木の枝から、まるで溶け込んでいた影が人の形を取ったかのように、四つの人影が、音もなく姿を現した。闇滅隊だった。
「……待ってたぜ、バルカスのでかいの」
ファムが、木の枝から軽やかに飛び降りながら、一行を迎えた。
洞窟の中では、焚火が、この死の世界で唯一の温かい光を放っていた。
二つのチームは、初めて、一つの部隊として、その火を囲んだ。
「―――状況を報告する」
ファムが、地面に広げた手製の地図を指し示しながら、作戦会議を始めた。
その瞳は、もはや王都の路地裏で燻っていた頃のそれではない。
幾多の死線を越えてきた、精鋭部隊のリーダーの顔つきだった。
「呪いの元凶は、ここから森を二刻ほど進んだ先にある、『古びた社』だ。元々は、この土地の古い土着神を祀っていた場所らしいが、今は、黒曜石ギルドの連中によって、呪詛を増幅させるための、おぞましい祭壇に変えられてる」
彼女の言葉に、ロザリアが息を呑む。
「社の周囲には、戦闘に特化したギルドの連中が、少なくとも二十名はいる。さらに、社の内部には、この呪詛の中心となっている、強力な『呪物』と、それを守る、さらに手強い何かが潜んでいるはずだ。ナシルの『眼』でも、内部の正確な様子までは窺えなかった」
砂漠の民ナシルが、静かに頷く。
「社全体が、強力な認識阻害と、邪気の結界で守られている。迂闊に近づけば、正気を失うか、あるいは、呪いに取り込まれて、ミイラにされるのが関の山だろう」
その絶望的な報告に、護衛の騎士たちの顔に緊張が走る。
だが、ロザリアは、震えながらも、顔を上げた。
「……でも、その呪物さえ、浄化できれば……この大地は、救われるんですよね?」
「ああ。だが、問題は、どうやって、あの呪いの中心まで辿り着き、そして浄化するか、だ」
ファムの言葉に、その場にいた全員の視線が、自然と、一人だけ、全く話についていけていない少年に注がれた。
「……え? な、なんだよ。俺の顔に、なんかついてんのか?」
樹は、きょとんとした顔で、自分に向けられる視線に戸惑っていた。
ロザリアは、意を決したように、樹の前に進み出た。
「勇者様。……この呪いを解けるのは、おそらく、貴方様だけです」
「はあ!? 俺が!? そんな、都合のいい話あるわけねーだろ! 俺は、ただ、立ってただけで…!」
「いいえ、事実です」
ロザリアは、真っ直ぐに樹の目を見て言った。
「先日の村で、不思議なことがありました。貴方様が、倒れた子供のそばに近づいた時、その周りの、ほんの僅かな大地から、呪いの気配が消え去ったのです。まるで、闇が、貴方様という『光』を恐れて逃げていくかのように……」
彼女は、自らの目で見た、信じがたい現象を、必死に言葉にする。
「私には、難しい理屈は分かりません。ですが、貴方様の魂そのものが、我々にはない、とても、とても清らかで、邪悪なものを寄せ付けない、特別な力を持っているのだと感じました」
「だから……もし、貴方様があの呪いの中心である祭壇に立ってくだされば…貴方様がそこに『いる』だけで、その存在そのものが、この大地を蝕む呪いを浄化してくれるかもしれないのです。どうか、我々にお力を貸してください!」
「いやいやいや、無理無理無理! 絶対無理だって! だいたい、そんなヤバそうな場所に、俺が行くわけねーだろ! 死ぬじゃんか! 俺、まだ死にたくねーんだよ!」
樹は、全力で首を横に振る。
その顔には、純粋な恐怖が浮かんでいた。レオの死が、彼の心に、決して消えない傷跡を残していた。
その、情けない背中を、バルカスは、ただ、じっと見つめていた。
そして、静かに、しかし、重い声で言った。
「……誰も、貴殿一人で行けとは、言うておらん」
バルカスは、樹の肩に、その巨大な手を、そっと置いた。
「我らが、貴殿のための道を、この剣で切り拓く。貴殿は、ただ、我らが作ったその道を、まっすぐに歩けばよい。それだけだ」
「……でも、それでも……!」
「レオという兵士は、貴殿を信じて死んだ」
バルカスの声が、わずかに震える。
「あいつは、貴殿が、人々を救う『希望の光』だと、心から信じていた。……その想いに、どう応えるのか。決めるのは、貴殿自身だ、勇者殿」
樹は、言葉を失った。彼は、バルカスの、真剣な瞳から、逃げるように目を逸らす。
そして、懐で握りしめた、レオの形見である、手綱の革片、やけにリアルだった。
「…………わかったよ」
長い沈黙の後、樹は、蚊の鳴くような声で、そう呟いた。
「……行くよ。行けば、いいんだろ……。ただし! もし俺が死んだら、王様に言っとけ! 銅像は、絶対に、純金で建てろってな!」
それは、虚勢だった。
だが、その瞳の奥には、自らの意志で恐怖へと一歩踏み出す、確かな覚悟の光が灯っていた。
「……よし、決まりだな」
ファムは、その様子を見届けると、再び地図を広げた。
「作戦を伝える。ハヤテ、シズマは、陽動として東から仕掛け、敵の主力を引きつけろ。ナシルと俺は、西の崖から潜入し、内部の罠を解除しながら、祭壇への最短ルートを確保する。そして、バルカスのでかいのは、護衛騎士と共に、中央から堂々と進め。ロザリアと、その……『切り札』を、絶対に守り抜け。いいな?」
その場にいた全員が、無言で、しかし力強く頷いた。
それぞれの役割、それぞれの覚悟。
目的は、ただ一つ。
一行は、洞窟を出て、森の奥深く、一際、濃い邪気を放つ、古びた社を、遠くに見据えた。
少女の知恵と、老いた騎士の武勇、そして、世界で最も役立たずな少年が秘めた、奇跡の力に、その全てが託された、大きな賭けだった。




