第五十二話:格の違い
「魔王」を名乗る巨魁モルガドールを討ち取ったエルヴァン平原に、勝利の歓声はなかった。
あるのは、死んだ仲間への静かな哀悼と、兵士たちの疲弊しきった呼吸。
そして、アレクシオスの胸に重くのしかかる『四天王の中では、最弱』という呪いのような遺言だけだった。
凱旋など、ありえない。祝宴など、論外だ。
幾分かの休息の後、アレクシオスは、血と泥に汚れたままの軍に、冷徹な命令を下した。
「全軍、転進。南へ向かう。我らの背中に剣を突きつけた、反逆者を討つ」
その決定に、異を唱える者はいなかった。
「魔王」を打ち破った軍の士気は最高潮に達し、兵士たちの瞳には、王への絶対的な信頼と、裏切り者への静かな怒りが燃えていた。
彼らは、この一年半と、直近の死闘を経て、もはやただの兵士ではない。
死線を越えた、歴戦の猛者へと変貌を遂げていたのだ。
その軍の片隅で、田中樹は、一人、膝を抱えて座り込んでいた。
レオの亡骸が丁重に運ばれていった後から、彼はいつものように騒がなくなった。
「勝利のステーキ」を要求することもなく、ただ、虚空を見つめている。
バルカスが、そっと干し肉を差し出しても、力なく首を振るだけだった。
その、あまりにらしくない様子が、この軍が払った代償の大きさを、何よりも雄弁に物語っていた。
♢
王国の生命線、大河アデルに架かる「王の橋」。
その南岸では、銀狼の旗が、数で勝る敵を相手に、必死の抵抗を続けていた。
「弓兵隊、右翼の敵騎馬隊を牽制! 決して橋の中央まで引き入れてはなりません!」
馬上から響く、凛とした、しかし焦りを帯びた声。シルヴァラント公国の公女、セレスティナだった。
彼女は、北で戦っているアレクシオスたちの援軍として駆けつけるために、自ら大軍を率いて辺境伯に戦いを挑んでいたのだ。
その決意は気高く、戦術も的確だった。
だが、相手は、長年独自の兵力を蓄えてきたマーカス辺境伯の私兵軍団。
その守りは固く、戦況は泥沼の膠着状態に陥っていた。
橋の北岸。
物見櫓の上で、マーカス辺境伯本人が、その光景を、ワイングラスを片手に、悠然と眺めていた。
「ふん、シルヴァラントの小娘が、必死なことよ。だが、この橋は落ちん。そして、北では、今頃、アレクシオスの小僧と魔王が共倒れになっているはず。全ては、我が計算通りよ」
彼が、勝利を確信し、ほくそ笑んだ、まさにその時だった。
北の地平線から、土煙が上がった。
「報告! 北方より、所属不明の軍勢が接近中!」
「来たか、亡霊どもが!」
辺境伯は、せせら笑った。
疲弊しきったアレクシオスの軍など、恐るるに足りぬ、と。
彼は、物見櫓から身を乗り出し、その目で、自らの勝利を確かなものにしようとした。
そして、彼は、己の計算が、致命的なまでに間違っていたことを、悟る。
地平線の彼方から現れたのは、敗残兵の群れではなかった。
軍旗は、血と泥で汚れ、ところどころが焼け焦げている。
兵士たちの鎧は、おびただしい数の傷で凹み、もはや元の形を留めていない者すらいる。
だが、その軍が纏う空気は、異常だった。
それは、死の匂いだった。
数万の魔物と死闘を繰り広げ、「魔王」を名乗る巨魁を討ち取って、生き残った者だけが放つことができる、冷たく、そして研ぎ澄まされた、絶対的な強者の気配。
彼らは、雄叫びを上げない。
ただ、無言で、地響きを立てながら、整然と、しかし雪崩のような勢いで、こちらへ向かってくる。
その一人一人の瞳には、感情というものが欠落しているかのように、ただ、目の前の敵を排除するという、氷のような意志だけが宿っていた。
辺境伯軍の兵士たちが、その異様な光景に、気づき始めた。
「な……なんだ、あれは……」
「……ロムグール軍、なのか? だが、まるで……まるで、地獄から蘇った亡霊のようだ……」
それまでシルヴァラント軍を相手に、余裕を持って戦っていた彼らの顔から、笑みが消える。
代わりに浮かんだのは、本能的な恐怖だった。
練兵場で、訓練を重ねただけの自分たち。
目の前にいるのは、「魔王」を討ち取って帰ってきた、本物の戦士たち。
その、あまりにも巨大な「格」の違いが、戦う前から、彼らの心をへし折っていた。
「ひ、怯むな! 構えろ! 敵は疲弊しているはずだ!」
辺境伯軍の指揮官が、必死に叫ぶ。だが、その声は震えていた。
マーカス辺境伯自身も、その手に持つワイングラスが、カタカタと震えていることに、気づいていなかった。
アレクシオスは、南で繰り広げられる戦闘と、目の前の辺境伯軍の布陣を、馬上から冷ややかに見下ろしていた。
彼は、ただ一言、静かに告げた。
「―――蹂躙せよ」
その号令が、合図だった。
「「「…………」」」
無言。
ただ、バルカスを先頭に、アレクシオスの軍が、一つの巨大な鉄塊となって、辺境伯軍の側面に、突撃した。
それは、もはや戦闘ではなかった。
一方的な、蹂躙だった。
「ぎゃあああああっ!」
「ひ、退け! こいつら、人間じゃねえ!」
辺境伯軍の兵士たちは、アレクシオス軍の兵士の一太刀を受けただけで、武器ごと両断され、馬に撥ねられ、赤子の手をひねるように、次々と命を散らしていく。
その剣技は、もはや人間のそれではない。
対魔物用に最適化された、一撃必殺の動き。
情けも、躊躇も、そこには一切存在しない。
セレスティナも、その好機を見逃さなかった。
「今です! 全軍、総攻撃! 橋を奪還します!」
南からも、銀狼の旗が、怒涛の勢いで押し寄せる。
南北から挟撃され、そして、目の前の友軍の、あまりにも人間離れした強さに、辺境伯軍は、戦意そのものを完全に喪失した。
彼らは、武器を捨て、鎧を脱ぎ捨て、我先に、と逃げ惑った。
ほんの数十分前まで、鉄壁を誇っていた辺境伯軍は、瞬く間に壊滅した。
戦いが終わった後。
静けさを取り戻した「王の橋」の北岸に、マーカス辺境伯は、数名の護衛と共に、呆然と立ち尽くしていた。
彼の退路は、アレクシオス軍によって、完全に断たれていた。
その彼の前に、二人の男が、ゆっくりと馬を進めてきた。
一人は、その瞳に、王としての、冷徹な怒りを宿す、若き国王アレクシオス。
そしてもう一人は、その全身から、裏切り者への、煮えたぎるような殺気を放つ、老獅子バルカス。
二対の、決して許しを乞うことのできない瞳に囲まれ、マーカス辺境伯は、自らの計算が、そして、自らの運命が、完全に終わったことを、悟った。
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