第五十一話:凱旋と、帝国の衝撃
エルヴァン平原に、戦いの後の、奇妙な静寂が訪れていた。
天を突くかと思われた「魔王」モルガドールの巨体は、黒い塵と化して風に消え、数万を誇った魔の軍勢は、恐慌状態に陥って蜘蛛の子を散らすように敗走していった。
勝利。
それは、あまりにも大きな代償と、そして、あまりにも重い呪いの言葉と共に、辛うじて連合軍の手に転がり込んできた、血塗れの果実だった。
「……負傷者の手当てを急げ! まだ息のある者を、一人でも多く救うんだ!」
「遺体を丁重に回収しろ! 彼らは、国を守った英雄だ! 故郷に、家族の元へ帰してやるのだ!」
グレイデンとバルカスは、自らの傷も省みず、疲弊しきった兵士たちを叱咤し、戦場の後処理の指揮を執っていた。
兵士たちの顔には、勝利の喜びよりも、仲間を失った悲しみと、死線を乗り越えた安堵、そして深い疲労の色が浮かんでいる。
アレクシオスとリリアナは、その光景を、小高い丘の上から、静かに見下ろしていた。
「……我々は、勝ったのですね」
リリアナが、か細い声で呟く。
「ああ。勝った。だが…」
アレクシオスは、言葉を続けない。
彼の脳裏には、モルガドールの最後の言葉が、呪いのようにこびりついて離れなかった。
『四天王の中では、最弱』。
この勝利が、巨大な氷山の一角を砕いただけに過ぎないことを、この場では、ごく一部の者しか知らない。
その、あまりにも重苦しい空気の中で、一人だけ、全く異なる時間の流れを生きている男がいた。
「見たか、俺の実力! 俺が睨んだだけで魔王はぶっ倒れやがった! これで文句なしに俺が連合軍の総大将だな! 勝利の女神は、やっぱ俺に惚れてるぜ!」
我らが勇者、田中樹。
彼は、自分がこの戦いの全てを決定づけたのだと、一点の曇りもなく信じ込んでいた。
「おい、誰か! 勝利のステーキを早く焼け! 俺は、この戦いで最も活躍したMVPだぞ! 最高の肉を用意しろ!」
彼は、負傷者の手当てで忙しく立ち働く兵士たちを捕まえては、自らの武勇伝を語り、賞賛と食事を要求して回っていた。
だが、誰もが仲間を弔うことに必死で、彼の言葉に耳を貸す者はいなかった。
「ちぇっ、なんだよ、ノリが悪いな、お前ら。もっと俺を称えろよなー」
チヤホヤされないことに苛立ちを覚えた樹は、ふてくされながら、戦場をあてもなく彷徨い始めた。
そして、負傷者が集められた仮設の野戦病院の、さらに奥。
丁重に毛布をかけられ、静かに横たえられた者たちが並ぶ一角に、足を踏み入れた。
「うげぇ、血なまぐせえな…。俺、こういうの苦手なんだっての…」
彼は、顔をしかめながら、無神経にその場を通り抜けようとした。
その時、彼の視界の端に、見覚えのある顔が映った。
「…………え?」
そこに横たわっていたのは、まだ少年と言っていい、若い兵士だった。
その顔立ちは、あどけなさを残しているが、表情は穏やかで、まるで眠っているかのようだ。
胸に受けたであろう、致命的な傷口だけが、彼が二度と目を覚ますことがないという、残酷な事実を物語っていた。
その兵士の名は、レオ。
樹は、その場で、まるで足が地面に縫い付けられたかのように、動けなくなった。
思い出す。
北への過酷な行軍の最中、ずっと自分の後ろをついてきて、「勇者様、すごいですね!」「俺、勇者様みたいになりたいです!」と、純粋な、キラキラした目で自分を見上げてきた、あの少年兵。
魔物との戦闘で、自分を庇って深手を負った、あの馬鹿正直な少年。
自分が気まぐれに与えた薬草で、奇跡的に助かったと、涙を流して喜んでいた、あの顔。
「……なんで……」
樹の口から、か細い声が漏れた。
「なんで、お前……死んでんだよ……。俺が、助けてやったじゃねえか……」
彼は、レオの亡骸の前に、ゆっくりと膝をついた。
いつもなら、こんな血と死の匂いが充満する場所には、一秒だっていられないはずだった。
だが、今、彼は、その場から動くことができなかった。
目の前の、動かない、冷たくなっていく「現実」。
それは、彼がこれまで生きてきた、自分こそが世界の中心で、全てが自分のために回っているという、能天気なゲームの世界とは、あまりにもかけ離れていた。
戦いは、ごっこ遊びじゃない。死ねば、生き返らない。
当たり前の事実が、初めて、彼の心に、鉛のような重さを持って突き刺さった。
彼は、震える手を、ゆっくりと伸ばした。レオの、固く閉じられた瞼に、そっと触れようとして―――しかし、その指先が触れる直前で、動きを止めた。
冷たい。
その、想像しただけで分かる冷たさが、彼を恐れさせた。
いつもの、自信満々な笑みは、彼の顔から完全に消え失せていた。
ただ、呆然と、己の無力さと、そして、これまで感じたことのない、胸が締め付けられるような奇妙な感覚に、戸惑っているだけだった。
「……そこに、いたか」
背後から、静かな声がかけられた。
バルカスだった。彼は、騒がしい勇者を探しに来て、この光景を見つけたのだ。
彼は、いつものように怒鳴りつけるでもなく、拳骨を落とすでもなく、ただ、樹の隣に静かに立つと、レオの亡骸に向かって、騎士の敬礼を送った。
「……レオは、勇敢な兵士だった。最後の突撃の際も、彼は、先頭に立って『聖勇者様が見ている!』と叫び、仲間を鼓舞していたと聞く。……立派な、最期だった」
バルカスの言葉に、樹の肩が、小さく震えた。
「…………」
樹は、何も言えなかった。
いや、何を言えばいいのか、分からなかった。
数日後。
連合軍は、エルヴァン要塞に守備隊を残し、凱旋の途についた。
その報せは、翼を持つ魔獣よりも速く、大陸全土を駆け巡った。
ガルニア帝国の帝都、天穹宮。
将軍ヴァレンティンは、密偵からの報告に、その端正な顔を驚愕に歪ませていた。
「馬鹿な……! 魔王が、敗れただと!? あの小国と、寄せ集めの軍勢に……!しかも、こんな短期間に……」
ヴァレンティンの顔に、初めて計算外の事態に遭遇した者の、純粋な驚愕と、そして深い苛立ちが浮かんだ。
彼の計画は、両者が疲弊しきったところを、帝国が漁夫の利を得る、というものだった。
どちらが勝つかは問題ではなかった。
だが、ロムグールが、これほど早く、そして鮮やかに勝利を収めることは、彼の想定を完全に超えていた。
「あの若造め……ただの幸運か、あるいは、我々が見抜けぬほどの『何か』を持っているというのか。厄介なことになった。英雄として凱旋すれば、奴の大陸における影響力は、我らが想像する以上に増大するぞ…」
そして、第二の報告が、彼の思考を完全に凍りつかせた。
「―――『我は、四天王の中でも、最弱』、と」
ヴァレンティンの顔から、血の気が引いた。苛立ちも、計算も、全てが吹き飛ぶ。
残ったのは、自らの戦略の、致命的なまでの甘さへの気付きと、底なしの脅威に対する、氷のような恐怖だけだった。
「……我々は、一体、何を相手にしようとしていたのだ……」
彼は、自分が、大陸が、あまりにも巨大な、そして悪意に満ちた盤の上にいることを、ようやく思い知らされたのだった。
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